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●廣瀬純著『美味しい料理の哲学』/河出書房新社/2005年10月発行
「美味しい料理」はいかにして発生するのか。「美味しい料理」はいかにして創造されるのか。本書の考察はそのような問いから始まる。「美味しい料理」をそれとして哲学的に思考し新たな言葉を産み出すために。まことにおもしろい本だ。キーワードは《骨付き肉》。廣瀬はいう。あらゆる料理は《骨付き肉》の構造をうちに秘めているのではないか、と。すなわち「料理とは《骨付き肉》を作り出すことではないか」との仮説を検証していくことが本書の核を成す。 たとえば焼き鳥は鶏肉を串に刺して料理される。鶏肉に串という《骨》を与えることによって《肉》が潜勢的なかたちで有している「焼き鳥」としての美味しさを現勢化させるというのが廣瀬の解釈なのである。 チマブーエの「キリスト磔刑図」から説き起こす廣瀬の思考はあらゆるジャンルの垣根を軽々と跳び越えていく。画家のフランシス・ベイコン、生物学者サン=ティレール、『モナドロジー』のライプニッツ、『変身』のフランツ・カフカ、ポーランドの作家ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ……。こうした人びとの言説やテクストを自在に引用しながら論をすすめていく廣瀬の姿勢は「美味しい料理」について考察するにふさわしい愉悦感に充ちたものといえるだろう。 熱力学を参照しつつカツ丼を語るあたりのアナロジーにはいささか無理があるような気がしないでもなかったが、持ち前の巧みな筆力でなんとか読まされてしまう。本書は「料理に深い関心をもっているすべての人に向けられていると同時に、思考を始めるきっかけを探しているすべての人にも向けられている」と廣瀬はエピローグで述べている。その狙いどおり、とくに料理に興味をもたない読者にも充分にアピールする本になっていると思う。
●上田康介著『吉朝庵 桂吉朝夢ばなし』/淡交社/2011年12月発行
二〇〇五年に惜しまれつつ他界した関西の落語家・桂吉朝。本書はその一人息子で現在はカメラマンとして活躍している上田康介が故人と縁を結んだ人びとにインタビューしてまとめた記録である。身内の単なる回想的なエッセイではこれだけ立体的に人物像を描き出すことはできなかっただろう。予想以上に内容の濃い本であった。最後の高座となった「米朝・吉朝の会」に向けて燃やした渾身の奮闘。仲間内で見せた茶目っ気たっぷりの悪戯。東京でも受け容れられた端正な話芸。……あれやこれやのエピソードが著者自身の追想はもとより関係者の証言によって具体的に描出されていく叙述は吉朝の贔屓筋でなくとも充分に読ませる内容だと思われる。 鈴々舎馬桜や春風亭一朝夫妻が吉朝に関して「上方の江戸前」と評するのもなかなか面白いし、下座囃子方の女性に示した気配りなども吉朝の人柄や器量をうかがわせて興味深い。 また芸風のまったく異なる兄弟子ざこばとは微妙な関係にあったようで、吉朝の振る舞いに対してざこばが何度か苦言を呈したことも具体的に記されている。そのざこばが吉朝の密葬の席に夜遅くやって来て棺の中の顔を見て弟子の一人に香典を渡した後、一度も座ることなく風のように立ち去っていく場面は、泣かせる。 私も吉朝の高座には何度も接して感銘を受けたが、本書を読んで彼の早過ぎる死にあらためて無念の気持ちがこみあげてきた。 なお本書には《くっしゃみ講釈》と《深山隠れ》を収めた特典CDが付いている。
●奥泉光著『シューマンの指』/講談社/2010年7月発行
ミステリー小説の体裁をとりつつも、一つのシューマン論としても読める。これは一風変わった面白い作品である。ドイツ・ロマン派を代表する音楽家のひとりロベルト・シューマンは精神を病み、ライン河に身を投げて救われたのち晩年を精神科病院で過ごしたことはよく知られている。また音楽家人生の途上で指に異常をきたしてピアノを弾けなくなったことも周知の事実である。登場人物たちはさながらそのような苦難の人生を歩んだシューマンの分身のごとく、音楽を語り、ピアノに向かい、文章を書き、指を傷つけられ、音楽と格闘する。 シューマンに魅せられた天才ピアニストの永嶺修人、音楽大学に進学しながら挫折した語り手の里橋優、その友人・鹿内堅一郎。彼らを取り巻く教師や女性たち。 里橋優たちが通っていた都立高校の卒業式の夜、学校内で殺人事件が発生する。その時、音楽室でピアノを弾いていた修人、その素晴らしい演奏に耳を傾けていた優と美術教師。そこにあらわれる堅一郎。はたして犯人は誰なのか……? 物語は長い年月を経た後の回想的な手記という形式をとっているが、シューマンと同時期のドイツロマン派文学の主要な形式であった書簡を物語の冒頭と終末においているのが注目されよう。とりわけ終末におかれた里橋の妹の書簡によって、里橋優が語ってきた物語を相対化する手法はなかなか手がこんでいる。 シューマンをめぐる優と修人の音楽談義のくだりは、それに興味を持たない読者にはいささか退屈に感じられるかもしれない。けれども少しでもシューマンのピアノ曲になじんできた者ならば、あらためてシューマンへの関心を掻き立てられることだろう。
●高橋源一郎著『恋する原発』/講談社/2011年11月発行
後半、唐突に挿入される〈震災文学論〉なる論考が本作のいわば自作解説めいた役割を果たしている。「疑いえない真理を『最初』に書く」という文法、「正義の論法」とでもいうべきその原則に対して高橋は再考を促すのだ。9・11の直後、服喪よりも先に傷ついたアメリカへの疑義を呈したスーザン・ソンタグは国内で激しい非難に曝された。だが、と高橋はいう。数千の自国民の犠牲を目にして、なお「テロとは何か。時にテロを必要とする者もいるのではないか」という議論を冷静にできる国家(民)は、如何なるテロによっても毀損されることはないはずだ。ソンタグがいちばんいいたかったのは、そのことではなかったろうか。(p202) 高橋はこの言葉のあと、川上弘美、宮崎駿、山本義隆、石牟礼道子らを引用しながら「通常とは異なった『倫理』から、ものごとを見る」ことの意義を考えている。さらにまた追悼や服喪のあり方についてより突っ込んだ考察を展開してもいる。たとえば「追悼と服喪は、起こったことに対してだけでなく、これから起こることに対してもなされるべき」ではないか、と。 もっともその論考以外の物語はあくまで軽佻浮薄なトーンが全体を通して維持されている。それもまた高橋なりの「倫理」のなせる業であろうし、その態度が真摯なものであることに疑いはないけれど、高橋の根源的な思考がこの作品において十全に結実しているのかどうか、私にはにわかには評価しがたい。
●森山大道、仲本剛著『森山大道 路上スナップのススメ』/光文社/2010年8月発行
森山大道は〈路上〉を撮り続けてきた。国際的にも高い評価を与えられているカメラマンである。今夏には大阪・国立国際美術館で《オン・ザ・ロード〜森山大道写真展》と題する個展が開かれて、私も彼がこれまで路上で捉えた作品の軌跡を大いに堪能した。本書はフリーライターの仲本剛が森山の撮影に同行して綴った、いわばスナップ撮影の入門書。森山の作品もふんだんに掲載されていて写真集的な趣もあり、読むだけでなく見ていて愉しい本だ。 撮影場所は、東京の砂町、佃島、銀座、羽田、そして栃木県足尾までの国道沿いの風景。銀座と羽田を除けばモノクロでの撮影。いかにも人間臭い風景。生活そのものが醸し出す人間的な匂いの立ちこめる風景がそこに写し出されている。 仲本が書き記す森山の言葉が森山ワールドへのアプローチとスナップ撮影への道標となる。 写真の一般的ノウハウとは離れてしまうかもしれないけれど、とにかく撮影するときはコンセプトだとか、テーマだとかは頭から外せ、と僕は言ってきた。(p19) 森山が好んで撮影に用いてきたのはコンパクトカメラである。 やっぱりね、一眼レフや大型カメラを持つと、頭で考えちゃうだろ。構図を気にするとか。その点、コンパクトカメラは考えなくても撮れる。それに、サイズは小さくても意外によく写るしね。(p71) 「絵葉書みたいな写真」という表現は、往々にしてネガティブな響きを伴って使われる。しかし森山の考えはすこし違う。それはおよそ「絵葉書みたいな写真」とは対極にある写真を撮ってきたカメラマンの言葉としては意外なものである。 考えてみるまでもないけれど、絵葉書の写真って、じつは、みな良い写真なんだよ。だから、この言葉は決して馬鹿にした表現じゃない。絵葉書の写真って、たいがい対象のちょっと上から撮ってる。あの撮り方に辿り着いた先人は、やっぱり凄いな、と本当につくづく思ってるから。(p104〜105) 森山のスタンスや考え方について私は全面的に共感はするわけではない。けれどもスナップ撮影に本領を発揮する森山大道という写真家を理解し味わう上で本書が一助となることは確かだろう。
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