●ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ著『鼻/外套/査察官』(浦雅春訳)/光文社/2006年11月発行
光文社が二〇〇六年九月に創刊した「古典新訳文庫」シリーズの一冊。ゴーゴリのおなじみの小説《鼻》《外套》を落語調に翻訳したもので、古典を「楽しく読める」ことを目指した本シリーズの面目躍如たる訳文といえるかもしれない。もっともそうした試みは本書の訳者・浦雅春の独創ではなく、かの有名な江川卓が以前に《外套》を落語口演用に訳したことがあるらしい。もともとゴーゴリの作品は、脚韻を踏んだり、言葉遊びや語呂合わせを多用したりしているというから、このような和訳で再登場するのはゴーゴリにふさわしいことではないだろうか。岩波版の平井肇訳《外套》では、特に韻を踏むことなく訳されていて何気なく読み流されるであろう部分が、本書ではたとえば次のような具合になっている。 ……九等文官どころか二等文官や三等文官、七等文官、いや、文官、鈍感、頓珍漢——およそカンと名がつく者なら誰もが不幸に見舞われないでは相済まないのであります。(p80) ゴーゴリは朗読の名手だったそうだが、それならなおのこと、このような調子の良い文章に置き換えた方がよりゴーゴリ的というべきだろう。 《鼻》は、小役人の鼻が取れてしまって、鼻が制服を着て街中を歩き回るという荒唐無稽な話である。落語調ということであえて言ってしまえば、町人が胴体を真っ二つに切られて別々に生きることになるという上方落語の《胴切り》をちょっと思い出させる寓話だ。 《外套》を語る時、必ずといっていいほど引きあいに出されるドストエフスキーの「我々は皆《外套》から生まれてきた」という言葉の真に意味するところを私は到底理解するものではないけれど、この作品に漂う無常感はおそらく現代日本にも通じるものではあるまいか。という以上に、下級官吏が爪に火をともすようにして新調した外套をお祝いのパーティの帰途に盗まれてしまうという成り行きに、私たちは生きていくことにたえずつきまとう名状しがたい喪失感を重ね合わせるのだ。 《査察官》は、これまで《検察官》の邦題で親しまれてきた戯曲だが、より実態に即した訳語をあてはめるということから今回のタイトルが与えられた。田舎町を舞台に、ペテルブルグから到来した官吏を査察官と勘違いして繰り広げられるドタバタ劇である。これもまた遠いロシアの話とばかりはいえない。官官接待だの役人の汚職だのと似たような状況が伝えられている極東の島国の読者にも充分にこのサタイアの風趣を味わうことが出来るだろう。もっとも、そうしたコンテクストでこの作品を味わえてしまうことが悦ばしいことなのかどうか大いに疑問なのだが。
by syunpo
| 2009-01-29 21:25
| 文学(翻訳)
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