●四方田犬彦著『翻訳と雑神』/人文書院/2007年12月発行
本書は同時に刊行された『日本のマラーノ文学』と双子のような関係にある書物で、冒頭の数行まではほぼ同じ文章で始まる。ここでの主題は「翻訳の政治学」である。そもそも「翻訳」とはいかなる営みであろうか。 それは一つの言語から別の言語に、透明で均衡的な対応関係をもって変換されるようなニュートラルな作業ではありえない。「翻訳されるべき言語の間に横たわっている文化的ヘゲモニー」が必然的に現れるような、すぐれて政治的な営為なのである。 たとえば、一八四〇年に英国王室から派遣されたウィリアム・ホブソンとマオリ族の酋長との間で土地の所有権をめぐってワイタンギ条約が結ばれたとき、翻訳が果たした役割を考えてみればよい。このとき英文で記された条約をマオリ語に翻訳したのは英国国教会の牧師であったのだが、彼はマオリ語訳の聖書の語彙に基づき、きわめて宗教的な意味論共示を援用して翻訳文を作成した。条約を構成する鍵となる概念が翻訳者によって操作され、故意に曖昧にされたため、結果的にニュージーランドの先住民を騙し、彼らから土地と自治権を奪うことに貢献したのである。これは先住民の権利回復運動として現在にいたるまで係争の対象となっている問題の一つだ。 翻訳とは、単に二つの言語の間に単語の対応を見つけたり、文化的な文脈に応じてそれに修辞的な改訂を施すといった次元ではけっして解決のつかない、より広い意味での言語の政治に深く根ざしている……(p32) 本書においては「翻訳の政治学」を文学史的に考察しているのだが、最も核心を成しているのは『朝鮮詩集』をめぐる論考である。 一九〇八年に釜山で生まれた金素雲は、一九四〇年、朝鮮語の詩を日本語訳した『乳色の雲』を世に問うた。それはいくたびか改訂された後、一九五四年に定本『朝鮮詩集』として岩波書店から刊行され、現在まで版を重ねている。金素雲は「いつ滅びるかもしれない母国語への人一倍強い愛情と、母国の詩心を日本人に伝えようという使命感」に衝き動かされて、同時代の朝鮮詩人たちの日本語訳を行なったのだ。 金素雲が手がけた詩作品のなかには、抒情詩の衣装を身に纏いながら巧みに寓意的な手法を用いて隠れた「抵抗」のメッセージを告げるようなものも少なからず含まれていたが、金素雲はあえてそうした寓意性を回避して、どこまでも作者個人の純粋感情としての抒情を作品から抽出しようと試みる。そのため詩作品がもっている思想性は後退せざるをえなかった。それは当時の政情を考慮すれば当然の「戦略」でもあったのだが、結果的に日本詩壇の中心にいた北原白秋や佐藤春夫らの激賞を受け、金素雲は多くの詩人たちと交友をもつことが可能になった。 二〇〇七年、在日朝鮮人の詩人・金時鐘は金素雲の翻訳した朝鮮詩をすべて再訳した『朝鮮詩集』を刊行する。「日本語と日本的な抒情への同化を配慮する必要」のなくなった再訳版においては「日本語において違和感が生じようとも原詩の精神を正確に再現しようという姿勢」を明確に示す翻訳がなされている。 このように要約してしまうといたって常識的な見解と受け取られてしまうかもしれないが、四方田は具体的に二人の訳詩を比較しながら、もう少し機微に触れた丁寧な検証と分析を行なっている。その読解には、長らく韓国文化と付き合ってきた四方田ならではの熱い思いと見識がにじみ出ており、その柔軟な詩的感性と相俟って翻訳論の見事なケーススタディとなっている。 このほか、ギリシャ語と漢語の意味音韻をめぐる比較研究に晩年のエネルギーを費やした西脇順三郎について論じた一文や、韓国語など外国語を導入して意欲的な詩作を続ける吉増剛造に関する批評文などが収録されていて、いずれも面白く読んだ。 余談ながら、先頃刊行されて話題を集めている水村美苗の『日本語が亡びるとき』を本書の横に並べることで、言語が危機に瀕するとはどういうことなのか、より重層的に理解することが可能になるのではないかと思う。 ※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
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