●齋藤純一著『政治と複数性』/岩波書店/2008年8月発行
ハンナ・アーレントは、世界が質的に異なった生のあり方から構成されていることを「複数性」という言葉で表現し、公共的空間をそうした差異の享受が可能となる空間として描いた。本書は、彼女のビジョンに依拠しながら民主的な政治空間における「複数性」の意義について考察を加えたものである。 アーレントの主張する「複数性」は、世界に対して多様なパースペクティヴが存在することを肯定するにとどまらず、その一つひとつが他に共約不可能な仕方で異なっていることを重視する。彼女の認識によれば、意見はその人に固有のものであって、他の誰もそれを代表することはできない。 一人ひとりの意見が代表不可能なものである以上、意見と意見が交わされる言説の空間は、排除がなく特権化が禁止されなければならない。ラディカルなデモクラシーが想定する公共的空間とはそのようなものである。 たとえば、ユルゲン・ハーバーマスやその後継者のいう「討議デモクラシー」は、そのような文脈で理解することができる。そこでは、市民が互いを対等な政治的存在者として扱うべしという要請が含まれている。この要請が充たされていないと考える者は対等な者として扱われることを互いに要求しうるのでなければならない。つまりデモクラシーは自らの条件を絶えず再帰的に問い直す過程を内包するものなのだ。 本書に示されているのはそうした複数性を基礎とするデモクラシーの理念だけではもちろんない。昨今、よく指摘される経済的不平等や社会的格差の拡大といった現実の政治課題についても十全な考察が行なわれている。 齋藤は、それらの現象を「格差」とは別の側面、すなわち生の空間の「隔離」や社会的空間の「分断」として捉えようとする。現在の社会では、市場から落伍した者たちは敗者として社会から排除され、同時に社会統合を揺るがす存在として疎んじられる。「社会保障という意味でのセキュリティの後退と治安管理という意味でのセキュリティの上昇は明らかに並行して」(p167)進行しているのだ。 そのような時代にあって社会保障を定義し直すならば、それは次のようなシステムとして構想される必要があるだろう。 人びとを有用か否かで測る経済市場を補完するシステムではなく、それとは独立した仕方で人びとの生活を保障することによって、経済市場の「需要」に拘束されないような生き方をも可能にしていくシステムとしてとらえられるべきである。(p156) 以上のような認識は当然ながら複数性を基調とするデモクラシーの理念にも直接に通じあうものだ。 本書ではこのほか近代の政治思想においては「非政治的」なものと見做されがちだった「親密圏」(近代の小家族などがモデルとなる)を政治的側面から再考したり、政治責任を二つの位相から考察する一文なども収録されていて、いずれも深い洞察に支えられた論考で大いに啓発された。
by syunpo
| 2009-03-14 10:26
| 政治
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