●山口二郎編著『札幌時計台レッスン2 ポスト新自由主義』/七つ森書館/2009年3月発行
「フォーラム in 札幌時計台」の第二シリーズは、ややまとまりを欠いた前回よりも山口二郎の「編集」力が巧く働いた一冊といえる。講師として登場するのは、金子勝、片山善博、高橋伸彰、上野千鶴子、柄谷行人。 高橋伸彰の「(文明に対する)文化」、上野千鶴子の「(官・民セクターに対する)協セクター」、柄谷行人の「(全体社会に対する)部分社会」。ボキャブラリーや政治へのアプローチはそれぞれ異なるのだけれど、その主張は基底部において微妙に通じ合い共鳴しあうものだろう。 それらは、いずれも国家やグローバリズムの限界・問題点を見極めた地点から、それに対抗しうるヴィジョンを提示するものである。 具体的議論としては標題にあるように「ポスト新自由主義」を睨んだ問題提起ということになるのだろうが、とくに上野や柄谷の主張は官僚組織や議会制(代表制)デモクラシーの限界を射程に入れているという意味ではラディカルな政治論ともいえる。 上野の《わたしのことはわたしが決める》は、中西正司との共著『当事者主権』での議論を基本に高齢者介護や障がい者問題を論じたチャレンジングなものである。 男性が女性を平然と女性差別できるのは、自分が女になる可能性がないからです。障がい者にはもしかしたらなるかもしれませんが、確率は低い。だけど高齢化からは誰も逃げられません。すべての人が中途障がい者になる蓋然性が高い社会をとうとう迎えました。こんな社会が来てよかったと思います。(p214) すべての人が中途障がい者になる可能性があるという超高齢化社会が到来したおかげで、障がい者運動が高齢者運動と合流できるようになった、と上野はいう。代議制民主主義に強い懐疑を示しながらも、それでも多数派工作が可能になったことをひとまず歓迎している。これからの介護や福祉について国や民間セクター以上に「協セクター」の役割に期待感を示しているのは従来からの持論だ。 《地域自治から世界共和国へ》と題する柄谷の発言は宮崎学の「個別社会」という概念をベースに、全体社会(国家)と個別社会(部分社会)の関係を歴史的に検証して、今の「専制的」な政治のあり方に対抗軸を打ち出したものである。ここでの個別社会・部分社会とは、政治学でいう中間団体・中間勢力に相当するもので、国家と個人との間にある地域社会や結社的なつながりをいう。 日本では国民国家を形成するにあたって、明治以降、中間勢力を解体して中央集権化を完成したために、早急な近代化を成し遂げることができたが、現代に至って個人がアトム化してしまうというツケを払わされているという。 柄谷の分析は細かな部分で異論反論を呼びそうな内容を含んではいるものの、過去の共同体の記憶に学びつつ「アソシエーション」(=中間勢力)を新たな創出していこうとする主張にはこれまでにないリアルさを感じた。 「徒党」が本当に強かった時代に、それに逆らって個人として活動するのは勇気がいります。しかし、今はそうではないでしょう。他人と一緒にやることのほうが、勇気がいるのです。(p264)
by syunpo
| 2009-05-09 21:55
| 政治
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