●水村美苗著『日本語で読むということ』『日本語で書くということ』/筑摩書房/2009年4月発行
「読むということから、書くということが生まれる」と水村美苗は繰り返し述べている。 中学生の時に米国に渡り、ひたすら日本語の小説を読むことで思春期を過ごしたという水村にとって「日本語で読む」ことは、通常の日本人以上に深い意味を有することであったに違いない。「日本語で書く」ということも水村にとっては必ずしも自明ではなかったはずであるが、結果的には「日本語で読むことによってのみ、日本語で書くようになった」と水村は振り返る。 ここで取り上げる二冊は、当初『日本語で読む・日本語で書く』とのタイトルで一冊の書物として刊行される予定であったらしい。その巻頭エッセイとして書き出されたものがとても長くなり、それじたいが一冊の本になるくらいに長くなってしまった。そして実際に出版された。それが話題の『日本語が亡びるとき』である。 ここに収められているのは、いずれも雑誌や新聞などに発表されたごく短い文章である。 二冊を通して読むと、漱石未完の作品『明暗』の続編として執筆した文壇デビュー作『續明暗』から『日本語が亡びるとき』に至るまでの著者の問題意識の在り処や思考の跡がよく理解できる。 漱石や谷崎潤一郎の作品を物語の構造だけでなく「文体」から読み解いていく視点は、日本近代文学史と重ね合わされることで、二人の大作家をよりダイナミックに浮かびあがらせる。 米国やフランスでの体験を綴ったエッセイも「日本語で書く」作家となった著者自身の言語観や世界観がにじみ出ていて面白い。あるいは、夜中に突然部屋を訪ねてきた知り合いの米国人男性が母と久しぶりに再会したことを問わず語りに語り出す話など、短編小説のような余韻を感じさせて妙に印象に残った。 加藤周一に関する二つのエッセイは、加藤のと人なりを簡潔に描写して味わい深く、医師としてパスツール研究所に留学したことに言及しつつ、加藤周一のような人材が今後出てきた時に「日本語とどう関わっていくか」を推察してまとめているあたりに『日本語が亡びるとき』の著者らしい危機意識が明確に表れている。 また八〇年代に発表されたポール・ド・マンに関する論考はやや難解ながら、水村の思索のバックボーンを知るうえで興味深いものであった。
by syunpo
| 2009-05-17 19:33
| 文学(小説・批評)
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