●加藤陽子著『戦争の日本近現代史』/講談社/2002年3月発行
為政者や国民が「だから戦争にうったえなければならない」「だから戦争をしていいのだ」という感覚をもつようになるのは、いかなる論理の筋道を手にしたときなのか。その歴史的経緯に注目して、日清・日露戦争や満州事変、太平洋戦争に関する日本側の「論理」をあとづけたのが本書である。 本書の叙述スタイルの特徴は、日本の近現代史における「戦争の論理」(の変遷)を、さながら自然科学者が観察対象を冷静にウォッチングするように、正邪の判断を極力排した形で検証している点に見出すことができる。 加藤のそうした姿勢は〈「二度と戦争は起こさない」という誓いが何回繰り返されても、今後起こりうる悲劇の想定に際して、起こりうる戦争の形態変化を考えに入れた問題の解明がなくては、その誓いは実行されないのではないか〉という山口定の言葉を念頭においたものと著者自身があとあきに記している。 ただ、ここで分析の対象になっているのはもっぱら為政者(&為政者を支えた知識人)サイドの言説であり、彼らの「論理」がどこまで当時の国民との間に共有されていたのか、その検証はかなり手薄である。とくに叙述が現代に近づくにしたがってその傾向は強くなっている。 好意的に解釈すれば、戦前戦中の政府や軍部の言動が逐一正確に国民に開示されていたわけではないし、言論の自由が保障されていたわけでもないのだから、為政者から出された「戦争の論理」の受容の実態については、残された文献のみから読み解いていくことはもともと困難な作業には違いない。 さらに、疑問点を挙げると、国民レベルで戦争を支えるものは「論理」ばかりとは限らず、情念や感情といった要素も無視できないのではないか、という点だ。その疑問は本書を読み終えた後でも完全に払拭することはできなかった。 とはいえ、本書が日本の近現代史を学ぶうえで有意義な視座を提供してくれていることはまぎれもない事実だろうと思う。 特に興味深く読んだのは「内にデモクラシー、外に帝国主義」といわれる日本の近代化の二面性に触れた部分、とりわけ自由民権運動における対外政策や征韓論の背景などに関する記述である。 一般に征韓論に象徴される対外強硬論は「士族の内乱を防ぐために対外侵略をガス抜きとして使おうとした」との解釈がなされる場合が多いのだが、加藤によるとそうではなく、「維新当時の国家の元気を取りもどし、国家の覆滅を回避する道」(p48)として「立憲」と「征韓」の組み合わせが志向されたのである。
by syunpo
| 2009-08-04 19:17
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