●田中克彦著『差別語からはいる言語学入門』/明石書店/2001年11月発行
書名の「言語学入門」というのは著者自身も認めているようにやや大仰で、内容的には「差別語をめぐる言語学者の随想」とでもいうべきものである。 そもそも「差別語」なるものが言語学的にも社会的にも厳密にカテゴリー化されているわけでは、もちろんない。それは一般に「差別語糾弾運動」によって問題化されたものである。糾弾運動について田中は「言語史の上ではほとんど考えられなかっためずらしいできごと」と捉え「ことばのよし悪しを決める権利を非エリートが、言語エリートから、部分的にでも奪取しようという動き」としてひとまず「支援」する立場を言明している。 一方で、そこでは様々な弊害がみられることも事実である。差別語糾弾運動が、中央集権的な「方言撲滅運動」をしのばせるおもかげをたたえている点、言語レベルでとらえるかぎり民衆的というよりはむしろ反民衆的運動になっている点……などの問題点についても著者は指摘することを忘れない。 しかし、それ以上に田中が強調するのは差別語の問題を通して、言語学的な考えに触れ、「ことばのあらゆる現象にもこまかい観察の態度と方法を養う」訓練の場を形成していこうという展望である。内容はともかく構えとして著者が本書に「言語学入門」と銘打った所以もそこにある。 田中の主張はところどころ議論の精緻さを欠いていて賛同しかねる点も少なくないのだが、前半部で、差別語ひいては言語そのものをめぐる「妄説」「邪説」への根本的な批判を行なっているくだりは言語学者としての田中の基本的な考えが明快に示されている。「邪説」のなかでもとりわけよく聞かれるのが「ことばだけいじくっても、差別という現実はなくならない。したがって差別語を議論することじたいが無意味である」という見解である。このような主張は言語学者からもなされることがあるらしい。 これに対する田中の批判は次のようなものである。 「差別という、人間の心理状態を作り出すのはことばであり、そもそも差別という観念そのものが、ことばなくしては発生しないものである」。また「サベツがあると感じたりそう指摘したりするのは人間だけである」。だから「人間に固有の差別という現実を問題にできるのはことばによるしかなく、したがって差別語を問題にしないで差別を論じる議論など、原理的には不可能なことはあきらかである」。(p30〜31) このような認識にたって、欠損をあらわす専用形「カタ」をめぐって言語学的考察が進められ、「トサツ」と「ホフル」についての人類学的知見を織り込んだ考証がなされていく。 本書の記述からどれだけの読者が言語学に強い関心を抱くかは定かではないけれど、しばしば事なかれ主義に陥って活発に議論することの難しい差別語の問題を再考するうえで刺戟に満ちた本であることは相違ない。
by syunpo
| 2009-08-06 09:41
| 日本語学・辞書学
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