●三浦雅士著『身体の零度』/講談社/1994年11月発行
「何が近代を成立させたか」とサブタイトルにあるとおり、本書は近代化の過程を「身体」さらには「身体」をめぐるまなざしの変容をとおして跡付けるものである。実に面白い。面白すぎる。つまり考証が大づかみの力技なので、オネオネと細かい反証を持ち出して批判する人間も出てくるかもしれないという懸念も残るわけだが、それにしたって本書の卓見の前では重箱の隅をほじくるものとして一蹴されるのが関の山だろう。 かつて身体をめぐるタブーはおびただしかった。左利きは矯正されたし、足で襖や障子を開けてはならなかった。また纏足やコルセットの着用など、身体加工は洋の東西を問わず行なわれていた。 しかし今やあらゆるタブーから解放されて、人間はただ純粋にその身体に向き合っているように見える。「裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体」——「身体の零度」が尊重されるようになったのは、いつの頃からだろうか。それは近代以降である、というのが本書の見立てである。 三浦は、その過程を、女性の纏足やコルセットからの解放、泣く・笑うという行為が社会化規範から解き放たれ個人化していくこと、日本におけるナンバの消滅、軍隊や学校教育における教練や体育・体操の世界的普及……などに見出していく。 「身体の零度」は「自然な身体」として記述されるが、それは「もっとも望ましい状態で生育した身体」を意味する。つまり、それは「もっとも人工的な、もっとも不自然な身体であるといっていい」。そのような逆説を理念としてもたらしたのが近代であった。 無論、そうした認識は、マンフォード、エリアス、武智鉄二、フリーデル、ホイジンガ、ルソーなど先賢の知見に多くを負っているが、それらを学際的に横断しつつ同じ文脈のなかに整理していく三浦の手つきは見事というほかない。またパール・バックの《大地》や夏目漱石の《三四郎》など文芸作品を随所に引用する叙述の巧みにも唸らされる。 当初文芸批評家として出発した三浦が、その後、身体論に関心を移していった動機も、本書の後半部、「近代によってもたらされた身体の零度に根ざす総合芸術、いや芸術以上のものとなってきた」舞踊をめぐる論述を読んで明快に理解することができるだろう。 講談社選書メチエの草創期を飾った一冊だが、内容的にはまったく古びていない。身体論の古典となるであろう本である。
by syunpo
| 2009-09-13 19:18
| 思想・哲学
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