●辺見庸著『私とマリオ・ジャコメッリ』/日本放送出版協会/2009年5月発行
マリオ・ジャコメッリは、一九二五年に生まれ二〇〇〇年に他界したイタリアの写真家である。戦後を代表する異能の映像作家ともいわれているが、日本での知名度はそれほど高くない。昨年、東京都写真美術館で開催されたマリオ・ジャコメッリ展には「知られざる鬼才」とのキャッチコピーが付されていた。 本書は、近年病いに倒れ、生死の境をさまよった作家・辺見庸の手になるマリオ・ジャコメッリ論である。ジャコメッリがホスピス病棟に通って撮った《死が訪れて君の眼に取って代わるだろう》シリーズに関する批評などに著者ならではの言葉が紡ぎ出され、ジャコメッリに対する共感が強くうかがわれる。 ジャコメッリの映像は、私に快感をもたらさない。不快というのでもない。快不快をこえた風景の深みに連れていかれて、むしろ、心がかき乱される。かれの映像が通常ではありえない意識作用を私にもたらし、私は映像に感染してしまうのだ。(p54) いくつか掲載されているジャコメッリの作品をみていると、なるほど名状しがたい力を湛えた奥深い世界が広がっている。 ただ、本書において辺見が執拗に繰り返している〈資本〉批判は陳套極まりない。 辺見の〈資本〉批判・テクノロジー批判は、ジャコメッリの映像作品を賞賛するに際して持ち出される論理である。同時に辺見は「内面」世界を表現することに格別の価値を見出しているらしく、それを具現化したものとしてジャコメッリを高く評価してもいる。それは以下のような物言いにあらわれている。 「スカンノの少年」に代表される〈異界〉の映像は、〈資本〉に食いつくされる以前に人間がもっていたであろう豊かなイマジネーションを回復するための手がかりでもある。(p21) 現在の一部の写真家のように、戦争をやっているところへ行って撮らなければ写真じゃないとばかりに戦地や飢餓地帯におもむく怪しげなヒロイズムは、かれのなかにはまったくない。ジャコメッリの関心事はあくまで内面世界にあったので、もっぱら自分の住む町やその周辺で写真を撮った。(p44) しかし、写真というメディアはまぎれもなく〈資本〉によって生み出されたものであり、テクノロジーの成果のうえに成り立つ表現方法である。それに何より辺見のいうような人間の「内面」じたいが、近代的自我の所産であり、それこそ「人々が〈資本〉に食いつくされる」時代——近代以降に問題化されたものではないか。 「テクノロジーと資本にからめとられてどこまでも貧しくなってしまったわれわれの想像力」(p22)と辺見が慨嘆する時、それ以前の、豊かな想像力をもっていた人間社会などというものは、現代人が捏造したイデオロギー的仮構にすぎない。 誰が撮影した写真作品であれ、そこに近代以前の古き良き時代の豊かな何物かを見出そうとする言説は倒錯した観念論にすぎないのである。 そもそも今、〈資本〉の強大な運動に対して辺見のような単純な論法で敵意を示したところで、どれほどの実効性を持ちうるのだろうか。「資本とはなまやさしいものではなく、ビジネス・チャンスと見れば、ジャコメッリ作品でさえもとりこむ力があるのだ」と辺見はいう。何を今さら。ジャコメッリどころではない。マルクスやレーニンの言説でも、チェ・ゲバラをめぐる伝説でも、資本の横暴を告発するエコロジー思想でも、ありとあらゆる反〈資本〉的なものでさえも〈資本〉のサイクルの中に取り込みながら自己言及的に増殖を続けていくのが〈資本〉の力だ。そんなことは自明の話ではないか。 二〇世紀の世界を生きたマリオ・ジャコメッリ。彼が具体的に〈資本〉とどう関わったのかは知らない。だが彼の「創作」した映像作品は、なべて〈資本〉の運動なくしては極東の島国の人々の眼に触れることもなかったろう。〈資本〉の運動がジャコメッリと辺見とを引き合わせた。そうした僥倖を受けて辺見の想像力が刺戟され思考が活性化される——。良くも悪しくもそれが現代という時代なのである。その事実を無視して組み立てられた言説はただただ空しいというほかないのだが、かかる空しさを炙り出すのもまた〈資本〉の力というべきなのかもしれない。
by syunpo
| 2009-09-15 09:18
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