認知考古学の試み〜『列島創世記』

●松木武彦著『列島創世記』/小学館/2007年11月発行

b0072887_1792117.jpg 小学館が出している〈全集 日本の歴史〉シリーズ全一六巻のオープニングを飾る一冊。旧石器時代から縄文・弥生を経て古墳時代に至るまでの時代、文献資料が乏しいためもっぱら考古学にその研究が委ねられている時期が対象となる。

 本シリーズに先駆けて刊行された講談社の〈日本の歴史〉シリーズでは、本書の後半部に該当する時代を扱った寺沢薫の『王権誕生』(二〇〇〇年刊行)が標題どおり古代列島における政治の覇権争いと稲作の伝来・普及をめぐって記述の多くを費やしていることを思えば、本書の多角的な叙述は松木の視野の広さのみならず、日本考古学の日進月歩の歩みをも感じさせて、まことに興味深い。

 とはいえ本書から得た印象をざっくりいえば、先端の考古学の面白さと同時にいくばくかの疑問をも感じずにはいられなかった。話題の認知考古学の手法を導入しているのが売りの著作なのだが、正直なところ認知考古学なるものの真価は本書を読んだかぎりでは今一つよくわからない。

 認知考古学とは何か。ヒトの心の現象を科学的に分析する「心の科学=認知科学」の成果を考古学に採り入れたものだという。著者によれば、それは「歴史科学の再生」のために導入される。在来の考古学では科学的な叙述を行なうには限界がある、ということなのだろうか。もっとも松木は認知考古学の科学性をアピールするのに、冒頭ではすでに命脈が絶たれたと思しきマルクスの史的唯物論をやり玉にあげ、まとめの部分では文献史学の限界を指摘している。

 最近、朝日新聞に掲載されたインタビュー記事で松木自身が「警察の捜査に例えると考古学の発掘は“鑑識”で、心理学に近い認知考古学は“プロファイリング”」と解説しているのを読んで、本書の消化不良感の所以が理解できたように思った。鑑識結果は容疑者の特定にも起訴後の公判維持にも貢献するが、プロファイリングとは推論でしかなく役に立つのは犯人逮捕まで。それじたいは科学的知見に基づいてはいても裁判での証拠としては使えない。

 さて、本書が描く認知考古学的方法による先史時代像のクライマックスの一つは〈美的モニュメント〉の代表例とみられる壮大な前方後円墳の出現をもたらした、その根本的要因を探るくだりであろう。
 松木は力をこめてまず次のように述べている。

 旧石器時代からの四万年の列島史のなかに古墳を位置づけたり、列島の古墳が世界でも最大級の規模を誇るまでになった要因を説き明かしたりするためには、さらに大きく視野を広げ、心の科学を武器にして、ヒトとモニュメントとの関係を分析することも必要だ。(p318)

 そうした視野から分析した結論は以下のようなものだ。

 日本列島に、美的モニュメントの典型のひとつといえる巨大前方後円墳が現われたもっとも根本的な要因、ないし人類史的な理由は、文字が本格的に使われるようになる以前に社会の格差が先行して進んだために、人工物の知覚を通じてそれを合理化する必要性がどこよりも著しく高まったからだろう。(p322)

 神話や史書によってみずからの地位を権威づけたり、法制による統治を目指したりするような、文字をもとにした情報による支配の制度が未熟だからこそ、美的モニュメントのような人工物に多大の労力を注ぐ必要があったとする松木の分析は説得力を感じさせる。

 ただ疑問に思うのは、このような叙述は松木がいうように本当に「認知考古学」という「武器」の導入をもって初めて可能になったものなのかどうか、ということだ。失礼ながらこの程度の分析なら、大仰に「認知科学」を引っぱり出してこなくとも、在来の社会科学的知見だけで充分書ける内容ではないかと思う。
 同じことは前半で縄文式土器の脱機能的な「凝り」をめぐって展開される文化論・コミュニケーション論的な分析にもいえる。

 もっとはっきり言ってしまおう。認知考古学の看板がかえって記述の混乱をまねいている箇所もみられる。
 たとえば、弥生時代中期の終わりから紀元前後に各地に増えた高地性集落をめぐるヒトの心の変化を述べたくだりだ。この時期に人びとが高所への興味を強めた根本的要因は「やはりヒトの心の中に探るべきだろう」(p249)との認識を示して、以下、その考察にすすむ。

 高いところが醸し出す心の現象は二つある。
 一つは、高所からの眺望がもたらす空間認識の客観性。二つめは「上下」の関係性の体感が社会的な序列や不平等と結びつくという事象である。
 以上二つの現象から、高所願望の根本的要因として「正しい空間認識や地理情報への社会的要請が強まっていたこと」「『上・下』の関係をはらむ世界観が、社会の階層化と連動しつつ人工物に演出されようとしていたこと」を指摘するのである。
 だとするなら、話はそこで終わるはずはない。「正しい空間認識や地理情報への社会的要請が強まったのは何故なのか」「上・下の関係をはらむ世界観が、社会の階層化と連動しつつ人工物に演出されようとしていた社会的背景は何なのか」という新たな問いがただちに提起されるはずである。実際、松木自身もその問いに答えるべく考察を深めていく。
 その結果、大陸からやってきた鉄器の普及に代表されるように「生産や生存を支える物資を、海や陸を越えた遠いところから取り寄せなければならない」状態が到来した、という生存条件の変化を指摘するに至る。
 つまり、弥生時代中期の人びとが高所への関心を高めた要因には、彼らの心に変化があったことは疑えないが、別にそれが「根本的」なのではない。そのような心の変化を促す社会の変化があったということが決定的に重要なのであり、それこそが「根本的要因」というべきだろう。

 無論、この一連の考察には論理的破綻はない。ただ、松木が前提的に「ヒトの心の中」を過大評価しているにすぎない。したがって「人びとが高所への興味を強めた根本的要因は、やはりヒトの心の中に探るべきだろう」という趣旨の認知考古学(というよりも心理学)を意識したフレーズを削除しさえすれば、ここでの叙述の整合性がとれるのだ。

 ちなみに前述した寺沢薫の著作では、高地性集落出現の背景については鉄器との関連から見る説を斥けてもっぱら軍事的必要性が強調されている。今回、松木は明らかにそうした異論への再批判を企図したものと思われる。ただ従来どおりの説を繰り返すだけでは芸がないので「認知科学」的な視点を加えて理論武装をはかったところが、空回りしてしまった、というところだろう。
 いずれにせよ、松木が本書において安易かつ頻繁に用いている「根本」「本質」の語句には注意を要する。

 以上をまとめあげていえば、著者自身が「プロファイリング」(=推論)であることを自認している方法をもって、先史時代の出来事の「根本的な要因」を探ろうとしたり、「科学の再生」を図ろうとしている方法的矛盾に加えて、その分析内容じたいも必ずしも斬新さを感じさせるものではない、ということだ。
 新しい学問領域の旗を掲げるためには、それなりのパブリシティが必要なことは察するけれど、それにしても叙述のあちこちから松木の気負いが伝わってきて読んでいて息苦しくなった。

 もちろん参照できる知見があれば、どこからでも引っぱってくれば良いと思う。考古学が考古学の枠組みに縛られなければならない理由などあろうはずはない。今やあらゆる学問は他の学問から知恵を借りる時代、学際的研究が志向される時代なのだから。
 実際のところ、松木は明記していないだけで、本書の記述に限ってもホッブズの自然状態=社会契約説の古代版という趣の推論があったり、文化人類学的な知見と通底する叙述があったりするのだ。
 その意味では、松木がことさら認知科学のみに固執する必然性もないだろう。必要以上に「ヒトの心」を強調するあまりに、もともと唯物論的な科学として営んできたはずの考古学が凡庸な観念論に侵食され、かえって曖昧化しかねない危うさを本書からは感じてしまった。
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by syunpo | 2010-04-07 12:10 | 歴史 | Trackback | Comments(0)
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