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日本近世史の新たな視点〜『「鎖国」という外交』

●ロナルド・トビ著『「鎖国」という外交』/小学館/2008年8月発行

日本近世史の新たな視点〜『「鎖国」という外交』_b0072887_18593824.jpg 国を鎖(とざ)す。すなわち鎖国。江戸時代の外交政策をそのように表現することには、かねてより疑義を呈する声は少なくなかった。具体的には一九七〇年代頃から「鎖国」史観に対する異論が提起され出したらしい。
 江戸時代を通して対外関係の窓口となっていたのは、長崎、対馬、薩摩、松前の四箇所。関係をもっていた国は、中国(明・清)、朝鮮、オランダ、琉球王国、蝦夷である。これらは、鎖国政策の例外というよりも、対外政策上、意図的に選ばれた窓口であり相手であった、と見る方が自然ではないか。そもそも国家が出入国を厳重に管理するのは当然のことであり、現在でも外国人が入国できるのは空港や港など場所は限られている。実際、徳川幕府の公式文書や法令のなかに「鎖国」の文字は一切みあたらない。

 〈江戸時代は「鎖国」を国是として、対外関係は一部をのぞいてつねに閉鎖されていた、という観念〉は〈幕末以降に広まった〉ものであり、それは明治維新の「開国」「文明開化」との対比において誇張された歴史観にすぎない、という趣旨のことを仲尾宏も著書『朝鮮通信使——江戸日本の誠信外交』のなかで述べている。
 本書はそのような歴史認識に基づき従来の鎖国史観からの脱却を目指して記された江戸外交史である。著者は近世の日朝関係を専門に研究している米国人歴史学者。

 著者によれば、日本は「鎖国」と呼ばれた時期の最初の一世紀、じつは積極的に商業・技術、または外交政策上において必要で有用な海外情報の収集活動をした。とくに中国とは正式の外交関係はなかったが、日本の輸入品の大部分を生産する重要な国であったことから、つねに中国の情報を入手しようとしていた形跡がうかがわれるという。

 幕府が外国情報を収集するためのルートは、いうまでもなく「四つの口」のうち長崎や対馬、薩摩を結節点として整備されていた。
 たとえば、中国船が長崎に入港すると唐通事が船長などに聴取して得た情報をまとめた風説書(報告書)を長崎奉行を介して江戸へと送付された。対馬藩や薩摩藩は、幕藩体制の原則にふさわしく幕府の意思と政策に対して敏感に反応した、とされる。

 また、一般に「鎖国」体制が完成したといわれる寛永一六年(一六三九年)のポルトガル船追放以後も、日本は朝鮮との外交を積極的に維持した。朝鮮通信使の受け入れや対馬藩の対朝鮮貿易は「鎖国」体制以降も継続されたのである。幕府は朝鮮通信使の行列を民衆に見せることで明らかに幕藩体制の権威づけや強化に利用していた。
 その意味では「鎖国」的政策による閉鎖的で内向きの統制によって秩序維持をはかったというよりも、時に外交関係を利用した戦略的な統治によって幕府の求心力を強めようとした、とみる方が実態に即しているだろう。

 一六四〇年以降の日本は、東アジアにおいて確固とした存在感をもっており、東アジアの発展と歩調を合わせていた。従来の「鎖国」論は、日本がアジアの一員であることを無視して、ヨーロッパとの関係だけを切り離して論じていたといえるだろう。(p18〜19)

 ロナルド・トビは日本・東アジアの近世近代史の専門家であり、自身が最初に断わっているようにヨーロッパとの関係についてはあまり論じられていない。また逆に近世の美術史料をめぐる記号論的な読解に多くの紙幅が費やされている。外交史としてはややアンバランスな叙述と論点の散らばった構成には不満が残らないではないが、近世の日本をアジア史的な文脈で理解するうえでは新たな視座を与えてくれる面白い本であると思う。
by syunpo | 2010-06-15 19:09 | 歴史 | Comments(0)
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