●宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』/岩波書店/2010年4月発行
〈私〉という視点からデモクラシーを考える。これが本書のテーマである。参照されるのは、フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルの唱えた「平等化」の概念だ。これまで別々の世界、別々の階級に暮らしてきた人々が「平等化」され、互いを同じ人類とみなすようになった時代におけるデモクラシーを考えたのがトクヴィルであった。宇野はトクヴィルのいう「平等化」がグローバルなレベルで実現しているものとして現代を理解する。 日本国内においては、社会を構造化してきた様々な中間集団の秩序が崩壊し、良い意味でも悪い意味でも人々を包み込んできた中間集団による仕切りがなくなった。それ故に日本社会は突如可視化した不平等と直面することとなった。人々の平等意識はますます鋭敏化し、世代間や集団間の相互不信が高まっている。 「平等化」が進行する社会では、諸個人は自分がいかなる他者にも劣らぬ存在であることにプライドをもつ。同時に自分がなんら特別な存在でないことも自覚している。脆弱な個人の〈私〉の自意識が鋭敏化する一方で、他者とのつながりを築けない状況がもたらされている。そこであらためて「社会」に注目すべき時がきている、というのが宇野の第一の認識である。 また〈私〉の意識こそが歴史の発展を生み出しうる。一人ひとりの自意識が高まっているなかで、人々を不条理に傷つけ苦しめるものに対する異議申し立てがやむことはない。そうした異議申し立てが少しずつではあれ社会を変えていく原動力となりうるのではないか。 〈私〉意識の高まりは、さらにデモクラシーの活性化を求める。人々が私的な利害に走って社会の公共の利益を無視すれば、デモクラシーはエゴイズムによって食いつぶされる、というのがこれまでの常識であった。しかし、今日では何が公共の利益であるか、けっして自明ではない。公共の利益が自明でないからこそ、それが何なのかを共同で政治的に決定していく過程としてデモクラシーが発展してきたことを考えれば、〈私〉意識の向上はデモクラシーの質を高める契機となりうるのである。 とはいえ、現実の日本社会にあっては〈私〉と政治とをつなぐ回路は必ずしもうまく機能しているとはいいがたい。むしろ今日もっとも欠けているのはデモクラシーに対する希望かもしれない、と宇野はいう。 その意味では、本書の叙述はあくまでもデモクラシーの可能性を理念レベルにおいて考察したものといえるだろう。デモクラシーの自己言及性を強調し、デモクラシーがデモクラシーを鍛え上げていくという認識は、昨今、政治哲学において議論されることの多くなった「熟議民主主義」の議論と重なりあうものだ。従来の熟議民主主義論が「公共」や「他者」に強い関心を示してきたのに対して、宇野は〈私〉から出発するところに本書の独自性を見出すべきなのかもしれない。 熟議の空間をどのように活性化させていくか。他の少なからぬ熟議民主主義論と同様に、本書にあってもその具体的な道筋が今一つ明瞭でない点に不満は残る。けれども、本書がデモクラシー論に新たな視座を付加する試みであることはたしかだろう。
by syunpo
| 2010-06-26 11:25
| 政治
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