●夏目漱石著『道草』/新潮社/2000年6月発行(文庫改版版)
『道草』は自叙伝的な作品ということで知られている。岩波書店の《漱石全集》に解説を寄せている小宮豊隆によれば「主人公は、それをそのまま漱石と見做して、少しも差支えないほど、漱石自身を直接に、赤裸裸に表現」したものらしい。 外国から帰ってきて東京に世帯を構えている健三。妊娠中の妻と二人の娘をかかえ、教師として地味な生活を送っている。そこに縁を切ったはずの養父の島田、島田と別離した養母の御常が別々に金の無心目当てにやってくるようになる。官僚としてかつては豪勢をふるった妻の父も窮乏して健三に救いを求めてくる。さらに健三は実姉にも月々いくらかの小遣いをやっている。ここでは、健三を取り巻く人間関係がもっぱら金銭のやりとりを軸にして事細かに描写されているのだ。 健三の態度は優柔不断で煮え切らない。脅しまがいの無心をしかけてくる島田に断固たる態度を取ることが出来ず、ずるずると面会を続けている。そんな夫に対して妻は当然ながら苛立ちを隠しきれない。 妻はときおりヒステリーの発作をおこすかと思えば、健三もまた子供のために買ってやった鉢植えを「無意味に」縁側から下へ蹴飛ばして鉢の割れるのに満足している。二人ともに神経を病んだ状態にあるのだ。読むほどに気が滅入ってくるような陰々滅々たる家庭生活である。 この作品に描かれているのは、漱石がロンドンから帰国して小説家としてデビューした頃の事とみられるが、養父が金銭の無心を始めるのは実際には朝日新聞社に入社した頃であるから、時期を違えた漱石の実体験がこの作品に詰め込まれているともいえる。 それにしても『吾輩は猫である』の明るい饒舌と、この作品における人物間の意思疎通の乏しい陰気なありようはあまりに好対照ではなかろうか。このような気鬱な環境の中からあの傑作が生み出されたとは、ちょっと意外な気もする。逆にいえば、『吾輩は猫である』のような軽妙洒脱な作品を書くことで、かろうじて漱石は精神のバランスを保っていたともいえるのかもしれない。 『吾輩は猫である』を対極に想起しながら、さて、私たちはこの辛気臭い小説をどのように読めば良いのだろうか? * * 「小説は、たかが商品ではないか。そして、商品に徹した魂のみが、また、小説は商品ではないと言いきることもできるのである」——そのように言い放ったのは坂口安吾だった。けれども、それに先立つこと三十年、漱石が生きた時代にはそのように言うことはやはりはばかられた。資本主義の発展の度合いに相違のあった点に加えて、知識人や文化人といった知的階級が厳然と存在していたという時代状況も大きいかもしれない。文学や学問を志す者の精神的知的な営みはけっして金銭の額に換算されるようなものではないと漱石は真面目に考えていただろう。 健三の内面にもそのような漱石の考えが充分に反映されている。 『吾輩は猫である』の第一回分原稿と思われる仕事に関して「彼の心は全く報酬を予期していなかった」と述懐しているし、また「物質的の富を目標として今日まで働いて来なかった」とも述べているのだ。 そんな健三のもとに島田が吉田という男とともにやってくる。そして本について語りだす。 「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」 健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でも儲けるには本に限るような事をいった。 ……(中略)…… 「へえ、大したもんですな。なるほどどうも学問をなさる時は、それだけ資金が要るようで、ちょっと損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りの良い訳になるんだから、無学のものはとても敵いませんな」 こうして二人は健三に本を書いて稼げば良いではないかと示唆する。健三にとっては「嫌がらせ」というほかなく、その時には無関心を装うものの、やがて彼は結果的には島田や吉田の言ったとおり最初から金銭を得ることを自覚しながら原稿を書くことになる。島田に手切金の百円を渡すために。 「暑苦しい程細かな字」で講義ノートを作成していた健三は、ノートではなく原稿用紙に向かって「猛烈に」働く。それは「書いたものを金に換える」ことの出来る執筆活動へと本格的に踏み出した新たな局面でもあった。 つまり、この小説は、ごく通俗的な読み方をするならば、職業作家誕生の舞台裏を描いたものと読むこともできるわけだ。ただし現実の漱石がこうした金銭上の必要に迫られて文筆家生活に入ったというわけではない。前述したように島田の無心が始まる前に大学教師の職を辞して朝日新聞社に入社していたのであるから、ここでの健三の振る舞いはたぶんに漱石自身の文筆家生活を戯画化したものと考えられる。 とにもかくにも健三は無事、島田に手切金を渡して、二人の関係にひとまず決着をつける。 妻はいう。 「安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」 健三は答える。 「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない」 この健三の言葉はよく引用される。直接的には、島田との金銭的な関係は片付いても養子に出され苦労させられた過去は決して片付かない、という意味にとれる。しかし、それだけではない。 島田との関係が契機となって心ならずも「書いたものを金に換える」生活へと本格的に踏み出すことになった健三にとっては、おそらくは死ぬまで片付かない文学という問題がこれまでとは形を変えて在り続けるのである。
by syunpo
| 2010-07-13 19:45
| 文学(夏目漱石)
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