●夏目漱石著『私の個人主義』/講談社/1978年8月発行
夏目漱石は座談や講演の名手としても知られたらしい。講演録をもとに漱石自身が手を加え「評論」として後世に伝えられてきたものがいくつもあり、本書はその中から《道楽と職業》《現代日本の開化》《中味と形式》《文芸と道徳》《私の個人主義》の五篇を収めている。 「自己本位」や「内発的/外発的」といった言葉は、漱石の作品や思想を語るときに今でもしばしば言及されるキーワードである。そうした言葉の意味するところはもっぱら漱石の講演で語られた。 《私の個人主義》は、漱石が自身の半生を顧みながら率直にその苦悩や煩悶を吐露しているもので「他人本位」から「自己本位」へと意識転換した経緯が示されていて興味深い。 「他人本位」とは「いわゆる人真似」とりわけ西洋への盲目的な信奉をさす。これを文学や人文科学に即していえば次のようになるだろう。 ある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触れ散らかすのです。つまり鵜呑みと云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし。(p134) そこで「自己本位」という四字が浮かびあがってくる。「その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出した」と漱石はいう。 ……今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人振らないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出して見たら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。(p136) そうした認識のうえに立って提起される「個人主義」とは「第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事、第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事」に帰着する。 したがって、個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっていることに相違ないが、「各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです」とも付け加えられている。 こうしてみると、今日「民主主義」の基本原理の一つともされている認識が、漱石にあっては「個人主義」の名で語られ顕揚されたということになろうか。 このような「自己本位」や「個人主義」は、《現代日本の開化》における文明批評においては、より大きな歴史的認識とともに敷延されている。 そこではまず「内発/外発」が問題になる。明治維新以降の欧化=開化を「外からおっかぶさった他の力で已むを得ず一種の形式を取る」ようなもので、それを「外発的」として漱石は批判するのだ。「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」。 対して「内発的」とは「内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向かう」のをいう。漱石によれば、西欧の開化は概してそうであるし、維新前の日本においても「比較的内発的の開化で進んで来た」といえる。日本の開化は「開国」以降急激に曲折し始めたのである。 「時々に押され刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というよりほかに仕方がない」という認識など今もなお当てはまるのではないか。 もっとも、この問題で漱石は確固たる処方箋めいた言辞を掲げることはない。ただ以下のような控えめな言葉が発せられるのみである。 現代日本が置かれたる特殊の状況によって吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされたるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。(p64) ……ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化していくが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない。(p66) 漱石の提起した難題から現代人は解放されたといえるのだろうか?
by syunpo
| 2010-10-07 19:19
| 文学(夏目漱石)
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