●リービ英雄著『我的日本語』/筑摩書房/2010年10月発行
日本語を母語としない西洋人が日本語を書く。これは近代以降の日本文学史、いや日本語史にとって画期的な出来事であるといってよい。しかしもっと長いタイムスパンでみれば、そもそも日本語の書き言葉そのものが大陸からの渡来人によって大きな影響を受け、外国語との接触によって鍛えられてきたという側面は否定できない。その意味では、リービ英雄の日本語への参入は日本語を問い直し且つ活性化していくという点では極めて意義深いことであるだろう。 《万葉集》において人々は漢文ではなく仮名混じりの言葉で歌った。すなわち「初めてエクリチュールを持った文化として作られた」。その代表的歌人・山上憶良は百済からやってきた帰化人であるとする説が中西進らによって提起されている。リービ英雄はその説に共鳴する。そのうえで「外国人には日本語が分からない」という思い込みは「近代の虚妄」であると言い、成り立ちから今日に至るまでの日本語の歴史に奔放な文学的想像力を発揮しながら自身の文学や翻訳を解題していこうとするのだ。 リービ英雄は幼年時代を台湾で過ごした。初めて大陸に旅して北京の地に立ち、現地の言葉が聞こえてきたとき、その音によって、台湾での記憶が呼び覚まされた、という。言葉の響き。言葉の記憶。リービ英雄の関心は常に言語に対して鋭く開かれてある。そこから「ジャーナリズム/文学」さらには「真名/仮名」「文明/文化」などの対比におもむき、中国を文学的・言語的に捉えようとする姿勢は刺戟に富んでいる。 天安門広場に立って《万葉集》の歌を想起する。そのような発想は日々ホットな情報を追いかけているジャーナリズムにはありえない。 ひとりの作家の洞察と、実際の世界の権力の構図が、今並行して動いている。並行して動いているから、現代史は複雑になり、中国そのものがさらに複雑になって、わかりにくくなっている。 しかし、そのような大陸を書くことは、絶対新しいことだと、ぼくは自信を持っていえる。(p144) 中国やアメリカ大陸での体験を日本語で表現することのうちに、日本語さらには言語の可能性が拓かれていくのではないか。そう著者は考える。「日本語によって、世界そのものの輪郭と細部がすべて新しく見えた」という述懐はまさに文学者のものだ。 このほか、新宿での生活、万葉集の翻訳、他界する直前の李良枝と交わした対話、九・一一同時テロでカナダに足止めをくらったこと……などなどの実体験が「日本語論」「言語論」となってほとばしる様はまさに越境的作家としての面目躍如たるものがある。 ただし、本書の内容は著者がこれまで刊行してきたエッセイや対論と重複している点が非常に多い。リービ英雄の愛読者にとってはいささか新鮮味に欠けるかもしれない。
by syunpo
| 2010-10-28 11:48
| 文学(小説・批評)
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