●廣瀬純著『シネキャピタル』/洛北出版/2009年5月発行
映画のミヤコ・京都から跳び出してきたユニークな映画論である。ジル・ドゥルーズの大冊『シネマ』全二巻をベースにマルクス的思考にも知恵を借りながら映画を語る。〈映画=資本〉すなわちシネキャピタル。労働だとか剰余価値だとか革命だとかいった語彙が頻出する記述は文字どおり〈映画資本論〉といった様相を呈しているのだが、もちろんそれは古典的マルクス主義とはあまり関係がない。ありていにいえば、一種のパロディとして資本論風に映画を論じたといった方が適切かもしれない。 それにしてもマルクス経済学の手垢にまみれた語句をキーワードに取り込んで、ドゥルーズのシネマ論を今に甦らせながら映画における「革命」を軽やかに謳う筆致には知的な運動神経の良さを感じさせる。 ドゥルーズの「普通のもの/際立つもの」という二分法を転用して「普通のものたちの協働が際立つものを剰余価値として生産する」装置として映画を認識し、そのうえでヒッチコックの作品にコミュニズム的なあり方を見出す。 ドゥルーズはまた「純粋に光学的音響的な状況」をたとえば小津安二郎に探り当てて評価しているのだが、それを廣瀬は「労働を拒否し自律的なやり方で自分の生を生き始めるプロの失業者としての普通のイメージ」と読み替え、小津の再吟味にいそしむ。 一人二役を好んだマキノ雅弘を「余分な価値が生み出されるように同一のイメージの回帰を組織」しえた映画作家として、経済とのアナロジーで論じるあたりの「インチキ」な叙述ぶりなど、映画そのものの「インチキ」ぶりに見事に拮抗していて愉しい。 無論このように要約してみたところで、何のことだかよくわからないだろう。廣瀬のシネマ論は情報ではなく運動そのものとしてあるのだから、そもそも要約にはなじまない、というべきかもしれない。 ちなみに、ここにはいくつもの映画作品(ヒッチコック《鳥》《めまい》、ロメール《獅子座》、ゴダール《新ドイツ零年》などなど)が具体的に名を挙げられ、分析の対象とされているのだが、これらをあらためて見直したくなる思いを喚起する度合いはたとえば淀川長治や蓮實重彦を読んだ時に比べればいささか弱いだろうと思う。本書の面白さはあくまで著者のエクリチュールそのものにあるのだから。 いずれにせよ、編集もなかなか洒落ているし、充分に剰余価値として「際立つもの」を感じさせる本にはちがいない。
by syunpo
| 2010-12-07 22:53
| 映画
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