日本文化論の金字塔〜『日本文学史序説』

●加藤周一著『日本文学史序説 上下巻』/筑摩書房/1999年4月発行(文庫版)

b0072887_19351156.jpg 加藤周一の代表的著作ともいえる『日本文学史序説』は一九七五年に原書が刊行された。翻訳も数多く出版されていて、日本人のみならず世界の日本文化・文学研究者にとってはバイブル的存在ともなっている名著である。
 古事記・日本書紀から戦後文学に至るまでの文学史を記述した本書は、文学の範疇にとどまらず芸術文化全般さらには政論にまで目配りする広い視野に支えられ、同時に古今東西の芸術・文化を知悉した著者ならではのグローバルなスケールを併せもった日本文化・思想の通史といえよう。

 全体の構造ではなく、それぞれの部分に独立した意味や妙味を見出し、悠久の時間の流れにではなく現在にすべての興味が集中する。端的にいえば「部分の細かいところに遊び、全体の構造を考慮することが少ない」(上巻p21)ところに、加藤は日本文化の精髄を見る。絵巻物しかり、平安朝の物語しかり、連歌しかり、谷崎潤一郎の《細雪》しかり。そうした日本文化観は加藤においては最晩年の著作『日本文化における時間と空間』まで一貫して保持されたものであった。
 もちろんそのような認識に対しては当然ながら異論反論もありえよう。が、日本文化を歴史的に貫いているとする基層的なコンテクストを取り出したことは、それを支持するにせよ異説を唱えるにせよ、日本文化論の一つの雛形になったことは間違いない。

 本書にみる加藤の叙述はケレンを排した正攻法に拠ってたつ。その分、面白味には欠けるかもしれない。タイプは全く異なるが同じようにブッキッシュな教養人・松岡正剛のように気の利いた語彙を駆使して気の利いた日本論をものしてやろうという色気がこれみよがしには出てこない点にこそ本書の美点が存するように思われる。またそうでなければこれだけの浩瀚な書物をつくることはできなかっただろう。

 それに加えて特筆されるのは、洋の東西にわたる加藤の碩学ぶりが遺憾なく発揮されていることだ。
 《古事記》にみえる恋の道行きからワーグナーの《愛と死》の管弦楽を想起するかと思えば、《万葉集》の歌にファウストのマルガレーテの思いを重ねたりする。《竹取物語》の空想的な物語の枠組と現実的な描写力の組み合せに、エドガー・アラン・ポーやホフマンの才気を並べてみせたあとには、親鸞の念仏にパスカルの賭の論理との類似点を指摘してみせる。一休宗純の「形而上学的で同時に感覚的」な詩の世界は、一六〜一七世紀におけるヨーロッパの形而上学的詩人であるジョン・ダンらと比較される。

b0072887_19355887.jpg 時代が降って江戸期から近代文学へと叙述が進んでくると、当然ながら加藤の文学観や作家評がより鮮明さを増してくる。
 「文学史においては、文化の一部分としての文学作品の歴史的な面に注目」すると著者があとがきに断わっているとおり、文化史的な系譜におさめやすい作家とおさまりきらない作家との間に加藤の文学観・歴史観や嗜好(?)がおのずとにじみでる。

 突然変異的に出現していかなる文学上の系譜にも連なりがたい樋口一葉については簡単に触れる程度(わずか五行)だが、野上弥生子や宮本百合子に関しては多くの字数を費やして、その文学史的な意義付けを試みている。
 柳田国男を採って折口信夫をとらず、太宰治については「津軽の旧家の自負と失敗の居直りの証言であり、挫折した人生の美化と自己陶酔の記念碑」と素っ気ない。
 また文庫化に際して新たに追加された〈戦後の状況〉の章で最初に出てくる固有名詞が小説家でなく丸山眞男であるのも加藤の問題意識を映し出して興味深いし、鶴見俊輔や小田実には言及しても吉本隆明の名を挙げないのは、加藤の反戦市民運動への共感のあらわれとみるべきなのか。

 ただはっきり物足りなく思われたのは、言文一致運動に関する記述の薄さである。日本の近代文学の成立という点でその運動の果たした意味は小さくないと思うのだが、ここでは日本の自然主義を論評するに際しての序章的な扱いで、本格的な検討の対象になっていないのは何故なのか。
 無論、このような通史では読者の数だけ注文や不満は出てくるものだろう。いずれにせよ加藤の文章は終始一貫して明晰であり、晦渋を気取った点は微塵もない。

 文学研究にかぎっても正規のアカデミズムの世界では専門分化が進む折から、今後この種の力技を示す教養人の出現する可能性はきわめて低いといわねばならないだろう。
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by syunpo | 2010-12-13 19:57 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)
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