●プラトン著『プロタゴラス──あるソフィストとの対話』(中澤務訳)/光文社/2010年12月発行
若き日のプラトンは政治家を志していたといわれている。しかしソクラテスに師事して哲学の道へと転じ、師の刑死をきっかけにソクラテスを主人公にした対話篇形式の作品を執筆するようになった。現在まで三十篇以上のテクストが伝わっている。もともと文学的才能にも恵まれていたというから、その作品は哲学書であると同時に文学的作品としての味もあわせもつ。 『プロタゴラス』はプラトン初期の傑作の一つで、ここに描かれたソクラテスは三十六歳頃という設定である。 黄金期を迎えていたアテネに一人の高名なソフィスト・プロタゴラスがやってくる。ソフィストとは教育を職業とする進歩的知識人のことで思想界の花形でもあった。なかでもプロタゴラスはその名声をギリシャ中にとどろかせていた。若きソクラテスは百戦錬磨の老獪なソフィストを相手に論争を挑む。主要な論題はアレテー(徳)である。 アレテーとは、訳者の中澤務によれば「たんに現代の日本語でイメージされがちな道徳的高尚さ(人徳)」を意味するだけでなく「勇敢さや優れた知力など、さまざまな能力を含み込むもの」だという。 直接民主政をとっていた当時のアテネにあっては、アレテーを持つ優れた人物が政治家として成功し社会を動かすことができた。ソフィストたちはアレテーとしてなによりも弁論術など言葉を遣って人々を動かす能力を重視し、それを教育しようとした。プロタゴラスは授業料をもらって啓蒙活動のために各地を巡っていたのである。 ソクラテスはそうしたソフィストたちの活動に疑問を抱いていた。何か貿易商人とか小売商のようなものではないだろうか。はたして人間のアレテーというものはそんなに簡単に教えることができるものなのか。 二人の対話は始まった。 ソクラテスはいう。アレテーは教えることができない。 対して、プロタゴラスは教えることができるという。 そもそもアレテーとは何か、とソクラテスは問いかける。アレテーはある一つのもので、正義や節度や敬虔はその部分なのか? いかにもアレテーは一つのものであり、きみが尋ねているものはその部分だ、とプロタゴラス。 ソクラテスはさらに追求する。さまざまなアレテーの間には密接な関係があるのではないか? たとえば正義は正しいものだが、同時に敬虔な性質をもっていなければ、正義といえないのではないか……。 ……二人の対話は、時に蛇行し時に脱線しながら白熱の度を増していく。やがてソクラテスは、正義や節度や勇気などのすべてのものが知識であることを証明しようとしている自分に気付く。そうして二人は一つの結論的な命題に立ち至る。 アレテーとは知識である。 ……だが、そうなるとアレテーは教えることが可能だということになり、当初ソクラテスが主張した「アレテーは教えることができない」という考えとは相反することになる。アレテーをめぐる対話は最終的にはアポリア(行きづまり)に陥ってしまったのだ。 本書の面白さは討論によってどちらか一方が相手を論破するのではなく、ひとまず得られた結論が最初の二人の主張をともに覆す──という終わり方にあるだろう。人は討議することによって、つまり互いに考察を深めることによって、最初の自分の考え方に変更を余儀なくされる。というより考察を深める前の自分がいかに無知で浅薄であったかを思い知る。 そうなのだ。無知の知。それこそがまさにソクラテスの哲学の核心にあるものだった。 途中、ソクラテスが詩に関して述べる見解──詩歌について議論するというのは、低俗で卑しい人たちの催す酒宴にとてもよく似ている──などは現代人からすると今一つピンとこないし、討議のための討議といった印象を受ける場面もないではない。が、二人の対論が充分に現代にも通じるものがあることは間違いない。 本書は長らく愛読されてきた藤沢令夫訳を基本的に踏襲するものだが、訳注や解説にプラトン研究の進展の成果が盛り込まれている。
by syunpo
| 2010-12-18 18:33
| 思想・哲学
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