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文学こそが革命の力〜『切りとれ、あの祈る手を』

●佐々木中著『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』/河出書房新社/2010年10月発行

文学こそが革命の力〜『切りとれ、あの祈る手を』_b0072887_18344819.jpg 本を読め。佐々木中はひたすらそう語り続ける。こんな陳腐なメッセージはまたとないが、侮ってはいけない。佐々木がそのように言う時、そこには毒も薬効もぎっしりと込められている。本書は私たちに読むことが必然的に招き寄せてしまう不可能性を指し示すと同時に可能性をも提示してくれるものだ。これほど冷徹で熱い言葉に触れたのはいつ以来のことだろうか。

 文学こそが革命の力であり、革命は文学からしか起こらないのです。読み、書き、歌うこと。そこからしか革命は起きない。(p106)

 ──おいおい、とたいていの人なら訝ることだろう。だが、本書を読めばこの言葉の意味するところは素直に納得される。少なくとも著者がそう言い切ろうとする論拠は理解しうる。
 本書にみえる言葉の鋭い切れ味には圧倒されるが、切れれば切れるほどに「ホンマかいな」とつい懐疑的になる箇所もないではない。それくらいに不要な石は削り取られ研ぎ澄まされた言葉の刃が向かってくるのだ。

 もっとも本書においては「文学」なる用語がかなり広範な範疇で捉えられていることはここで強調しておかなくてはならない。それは今日「小説」や「詩」「戯曲」と呼ばれる作品群のみならず、法や規範や制度にかかわるテクストをめぐる技藝をも含む広義の概念としてある。もちろん著者が勝手にそのように定義づけているわけではなく、ラテン語の“litera”から派生した「文学」というヨーロッパ語圏における語句の歴史上の用例を掬い上げたものだ。ムハンマドや聖アウグスティヌス、さらにはニーチェもウィトゲンシュタインもこの文脈において「文学者」の名のもとに称揚されることとなる。

 そしてそのような広義の文学が、文学こそが、社会を率先して変革してきたのだ、と佐々木は力説する。
 たとえば、マルティン・ルターが主導した大革命。一般に宗教改革と呼び慣わされているその革命は、ルターがひたすら聖書を読み、再読し、また読み返すことによってのみ始まった。当時キリスト教世界を覆っていた様々な悪しき制度や慣習は、いったい聖書のどこに書かれていることを根拠にしているのか。どこにも書かれていないではないか。私が狂っているのか、世界が狂っているのか。まさにルターの読みは命がけであった。読んでしまった以上、書かなくてはいけない。書き変えなくてはならない。ルターはラテン語で書かれていた聖書をドイツ語に翻訳した。活版印刷術が発明された時期に重なっていたことは幸運というほかなかった。聖書は人々に読まれ、知識人が朗読する言葉に庶民たちは耳を傾けた。革命の機運は熟していった。宗教改革は文学を読むことから始まったと佐々木が断言する根拠はかくして明らかにされる。

 そして一一世紀末から一二世紀にかけて地道に進められた中世解釈者革命。これこそは、近代国家や資本制の基盤を形作った歴史上画期的な革命であった。ルターの大革命をはじめ後続の革命はすべてこの革命の延長線上にあるのだという。そればかりか、われわれが通常「近代」と呼ぶ時代のあらゆるもの──近代法、近代国家、近代哲学、近代の大学制度、近代の科学──はなべてここに淵源を持つ。

 それはいかなる革命であったのか。
 一一世紀末、ピサの図書館で『ローマ法大全』全五〇巻が「発見」される。六世紀から一一世紀末まで六〇〇年近く完全に忘却されていた膨大な法体系。神学者や教会法学者は、これを読んだ。長い長い時間をかけて労力を惜しみなく注ぎ込んで読んだ。ここにおいてヨーロッパは、今までまったく知らなかった精緻な法概念と法律用語を大量に摂取する。読んだ以上は、書き変えなくてはならない。過去の偉大なる遺産であるローマ法を教会法に注入し、前代未聞の規模でその書き変えの作業が進むことになる。教会法のみならず、その管轄下にある世俗法──君主法、帝国法、封建法、荘園法、都市法、商法など──も次々と書き変えられた。教会とはキリスト教社会全体のことであり、教会は今でいう行政的な実務をも行なっていた。(日本の一時期の寺院にも規模こそ違え同様のことがいえただろう。)
 つまり教会法の書き変えは、社会全体の法規範や制度を変えることにほかならなかったのである。近代国家の要件とされる官僚制は教皇庁に、立法議会は公会議にそれぞれ起源をもつことも同時に指摘される。さらには「準拠を明示する」という実証主義の根本的な態度や資本制における契約制度や信用制度、信託制度もまた中世解釈者革命に由来するという。
 近代国家の祖型は中世解釈者革命におけるキリスト教共同体の成立にあるという、にわかには信じ難い佐々木の認識はこうして史実によって例証される。
 
 興味深いのは、この革命において当時の法学者たちが主権概念を精緻に磨きあげていったのは「国家」のためではなく、ヨーロッパ全体を統括する「教会」のためであった、という点だ。だが結果的には、長い年月をかけて彼らの為したことが近代国家の原型を提供することとなった。宗教の世俗化とは、同時に国家の宗教化でもあった。

 以上のような見立てはむろん佐々木の創意ではなく、ピエール・ルジャンドルに多くを負っている。日本の論壇では様々な外来思想が導入されてきたが、一般読者にとって本書の知見に新鮮味があるとすれば、これまでわが国で好意的に言及されることの少なかったルジャンドルをメインに持ってきたことに関わっているだろう。

 当然のことであるが、ルジャンドル=佐々木の歴史観からすれば、国家や法に先立って暴力が存在するというようなヴェーバー=萱野稔人的な思考は徹底的に否定されなければならない。とりわけムハンマドの事例を引いて文学の優位を主張した後に「国家や法の起源を暴力に見出すような思考はオリエンタリズム的な排除の思考によってはじめて成立する」と指摘する手際には鮮やかな説得力を感じた。

 もっとも佐々木の中世解釈者革命論は、光だけでなくその影の面を見ることも怠らない。彼は言う。法体系の徹底した索引化は、統治を情報化してしまった、と。その操作の異物として暴力が括り出される。「この時点から、法や規範や政治は、情報か暴力かという二者択一の袋小路に陥ることになった」。
 「すべてが情報である、だなんてもう八〇〇年も延々とやっているわけ」なのだから、今さらデジタル情報のデータベース化によって、新しがったり、逆に文学は死滅する、検索があるのみだ、などと騒ぎ立てたりするのは佐々木からすれば単なる戯れ言にすぎない。

 そもそも古代ギリシャの文献は、その九九%が散逸・消滅してしまっている。にも関わらず現代人はプラトンを読み、ソクラテスの言葉を読んで精神の糧としている。ニーチェの傑作『ツァラストラ』の最終部=第四部は出版社に見捨てられ、自費出版で四〇部刷って、知人に贈ったのは七部のみであった。にも関わらず現代人は『ツァラストラ』を読み、生涯をニーチェの研究に捧げることにした者は多数存在している。識字率が一〇%にも満たなかったロシアで、ドストエフスキーは次から次へと作品を書きまくった。一体何人の人間が自分の作品を読んでくれることになるのか。冷静に考えれば絶望的にならざるをえない状況で、それでもドストエフスキーは書いた。かくして現代人はドストエフスキーを読み、…………。

 どんなに不可能に見えても、どんなに極小のチャンスであろうとも……言葉はそれを抜けてくるのです。(p206)

 文学は終わった、藝術は終わった、歴史は終わった、あれも終わった、これも終わった……。さもしいことを言うな、と佐々木が叱咤するのも当然ではないか。
 本書は、佐々木が編集者を相手に語りおろして文字に起こし、おそらくは入念に推敲を重ねてテクスト化したものである。各章冒頭の時候に触れたフレーズにさりげなく洒落っ気をにじませるなど、そのスタイリッシュな語り口は、人によってはキザったらしく感じられるかもしれないけれど、なるほど文学を顕揚する者にふさわしい独特の味を醸し出しているようにも思えた。六〇〇ページ以上にも及ぶ衝撃のデビュー作『夜戦と永遠』も読まねばなるまい。
by syunpo | 2011-01-09 18:46 | 思想・哲学 | Comments(0)
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