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コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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社会科学の基本概念を整理しよう〜『市民社会とは何か』

●植村邦彦著『市民社会とは何か 基本概念の系譜』/平凡社/2010年12月発行

b0072887_1157675.jpg 今日「市民社会」という言葉は様々な意味やニュアンスを込められて使われている。歴史的にもその用法は大きな変転を描いてきた。広辞苑をみても、初版(一九五五年)と第二版(一九六九年)では定義に大きな相違がみられる。初版では「(bürgerliiche Gesellschaft)自由経済にもとづく法治組織の共同社会をいう」とある。ところが第二版では「(Civil Society)自由・平等な個人の理性的結合によって成るべき社会」となっている。そうした変化は、一辞典の変貌というにとどまらず、日本の社会と社会思想においてみられた歴史的変化を反映するものであることはいうまでもない。

 本書は社会科学の基本概念でもある「市民社会」という言葉の意味の歴史的変化を整理することを第一の眼目とする。その作業をとおして、よりよい社会を求める思想と運動がどのような言葉で何を語らねばならないのかも、もう少しはっきりとするはずだと著者はいう。

 日本語の「市民社会」という言葉の原語とみなされてきた〈Civil Society〉という英語は、本来はアリストテレスの「国家共同体」という言葉の訳語として一六世紀に使われ始め、ほぼ一八世紀までその意味で使われていた。しかしその意味での用法は死語となっている。
 〈Civil Society〉からは〈Civilized Society〉という派生語が生まれ、やがてそれが優勢になっていく。「自然状態」対「国家社会」という一七世紀の社会契約論の図式が、一八世紀には「未開・野蛮諸民族」対「国家を形成した諸国民」という世界認識を生み出し、さらに「進歩」という時間軸に沿って歴史化されていく。
 この「国家を形成した」社会に分業にもとづく商品交換の発展という経済的認識を付加したのがスミスであり、スミスのこの概念を「国家」とは区別される「市民社会」と再定義したのがヘーゲルである。
 ヘーゲルの用語法をそのまま受け継いだマルクスは「市民社会の解剖学」を構築していくなかで「資本主義的生産様式」という概念を確立し、最終的に「市民社会」を「資本主義社会」という言葉に置き換えた。

 「市民社会」という日本語は、マルクスの〈bürgerliiche Gesellschaft〉の訳語として使われ始め、一九三〇年代には、近代的経済社会あるいは「資本主義社会」の同義語としてそれなりに普及していた。広辞苑初版の定義はこの線上に捉えられたものとみてよい。しかしこの意味での用法もすでに死語となっている。

 したがって、日本語で「市民社会」と訳されてきた言葉の第一の意味「国家社会」も第二の意味「資本主義的経済社会」も歴史的過去に属す用法であり、現在ではもっと適切な別の言葉で表現できるはずだと植村は指摘する。

 ところで、広辞苑の定義を大きく変化させた時代背景にあったのは、一九六〇年代に大きな影響力をもった「市民社会論」と呼ばれる言説である。その言説の隆盛から衰退までの分析に本書は多くの紙幅を費やしている。

 マルクスの翻訳語として初めて導入された「市民社会」という日本語は、いわば矛盾を内包した「経済社会」を指す概念として日本語のなかにひとまず定着した。その後、四〇年代に結実するアダム・スミス研究のなかから、高島善哉らによって、ホッブズからスミスにいたるイギリスの近代社会認識と結びつけて「市民社会」が使われるようになった。
 さらに五〇年代に入ってあらためてマルクス研究へと接続される。内田義彦、平田清明、さらには松下圭一らのマルクス主義的市民社会論である。そこでは「市民社会」は「資本主義社会」とは区別される規範的理念として捉えられた。広辞苑第二版の記述転換を促したのは、まさに松下的な「市民社会」理解であった。
 こうして「市民社会」という日本語の定義は、ドイツ語を原語とするヘーゲル的概念から、英語を原語とする啓蒙思想的な規範的理念へと大きく転換した。

 その後、「大衆社会」論の勃興とともに「市民社会」という言葉は現状批判のための規範的理念という毒気を抜かれて語義が拡散し抽象化が進んでいく。
 その流れのなかで「市民社会」なる用語は、一九七五年における自民党幹事長の中曽根康弘の政治談義にも登場するようになる。そこでは「エゴイズム」や「傲慢」などを「浄化」した禁欲的な「民主主義」社会のことを指す用語として「市民社会」が使われたのである。社会変革のための規範的理念であったものが、政権与党の幹部が自分たちの語彙として使えるほどに牙を抜かれてしまう事態へと変化してしまったのだ。

 日本で「市民社会論」が終焉を迎えようとしていた時期に、東欧の「社会主義」体制を批判する用語として〈Civil Society〉は新たな意味をもって登場する。ポーランドの哲学者レシェク・コワコフスキは、国家権力に対して守られるべき自由な私生活の領域として再定義をほどこし、ポーランドの反体制活動家アダム・ミフニクも「市民団体」と重ねるように「市民社会」という言葉を使った。アメリカの政治学者ジョン・エーレンバーグも自主管理的な経済社会として「市民社会」を捉えようとした。英和辞典『リーダーズ・プラス』が〈Civil Society〉を「(東ヨーロッパで独裁的国家体制に反対する)市民団体」としたのも、そうしたコンテクストに拠っている。

 九〇年代以降の日本において「市民社会」は、まさに論者の自由な解釈によって今まで以上に幅広い意味合いを担わされることになった。
 市場を制御する役目を担わされたり(坂本義和)、権力主義的な国家活動と企業の営利志向の行き過ぎをチェックすることを期待されたり(八木紀一郎)、逆に市場原理が完遂される空間として提起されたり(経済同友会の提言)……。
 そうした状況をみて、新しい「市民社会論」が新自由主義的国家に事実上の「能動的合意」を与え、それを支える補完物になっているとする見解(中野敏男)も出てきた。つまり「市民社会(市民団体)」の両義性が問題になってきているのである。

 時代ごとにその典型となった言説をピックアップして分析していく植村の手際は、要点を適確についていて明快そのものである。大いに勉強させられた。とりわけ内田義彦や著者の師匠にあたる平田清明らの〈市民社会派マルクス主義〉者らの「市民社会」論の混乱ぶりを浮き彫りにするところはなかなかの切れ味だ。
 つい何気なく使ってしまう「市民社会」なる用語の系譜を簡潔にまとめた本書には、なるほど議論を整理するという以上の深い示唆や指針が宿っているように思われる。小熊英二的にもっと手を広げて子細に文献を検討していけば大部の書物となった可能性もあるが、新書としては充分におつりがくる内容といえるだろう。
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by syunpo | 2011-03-06 12:11 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)
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