●シャンタル・ムフ著『民主主義の逆説』(葛西弘隆訳)/以文社/2006年7月発行
民主主義を近代的たらしめている自由民主主義は、異なる原理の接合によって構成されている。人権の擁護や個人的自由の尊重を重んじる〈自由主義〉と、平等原理や主権在民を主要な理念とする〈民主主義〉の伝統である。この二つの原理には必然的な関連があるわけではなく、近代において接合されたのは歴史の偶発性によるものであることはつとに指摘されてきた。 この異種の原理の関係をどのように扱うかは政治理論にとって大きな課題である。自由主義者フリードリヒ・ハイエクは「民主主義は寧ろ本質的には一つの手段であり、国内平和と個人的自由を保障する功利主義的な一つの企画」と割り切った。これに対して民主主義を信奉する立場からは、自由主義的な諸制度にしばしば批判の目が向けられ、人民の意志が障害なしに表現されうる直接的な形態の民主主義を対置することが行なわれてきた。 現存する民主主義に対して、それを根源から問い直す昨今のラディカル・デモクラシー理論にはいくつものバリエーションが存在する。そのなかでも民主主義と自由主義を「和解」させようとする議論はやはり有力といわねばならない。ジョン・ロールズやユルゲン・ハーバマスらの政治理論がそれにあたる。ハーバマスの議論を批判的に継承するジョン・ドライゼックらによって提起されているのが「討議(熟議)民主主義」理論である。 討議民主主義が公共空間における理性的な合意を重視するのに対して、対立の局面を重視するのが「闘技民主主義」である。本書の著者シャンタル・ムフがその代表的論客といえるだろう。 自由民主主義とは、最終審級において両立しないふたつの論理の接合から帰結したものであり、両者が完全に和解することはありえないと理解することが民主主義政治にとって必須の契機である、というのが本書の議論の中心である。(p10) 「闘技的」民主主義では、政治には対立と分離が内在するものであって、「人民」の統一の十全な実現としての決定的な和解が達成されるような場が存在しないことを、私たちは受け入れなくてはならない。(p25) ムフが闘技民主主義へ至る基本認識を示すにあたっては、カール・シュミットを批判しつつも彼が指摘した自由民主主義の困難については積極的に参照している。 シュミットは代表制の原理に基づく自由主義と同質性の原理に基づく民主主義とは両立不可能であると認識していた。その点に関してはムフも同意する。両者を安易に調停しようとすることは、政治の場から政治を排除することだというわけである。 もっともシュミットは自由民主主義の両立不可能性から導かれる「友/敵概念」を本質化しており、それ故にその対立を固定化してしまう点で、ムフは批判に転じる。ムフは政治的秩序に根源的に内在する深い対立を障害と捉えずに、社会的抗争から社会的闘技へと転換していくことを主張する。 そして闘技的な民主主義を構想する際に依拠するのがウィトゲンシュタインである。ウィトゲンシュタインの理論は複数性と矛盾を受けれ入れる必要性にわれわれを導き、さらに〈生の形式〉の重要性を認知させる。 彼(=ウィトゲンシュタイン)によれば、同意は意味作用にではなく、生の形式にもとづいて確立される。それは同意、共通の生の形式によって可能となる声の混合なのであり、ハーバマスにおけるような合意、理性の産物ではない。(p109) ある主張を提起することはひとつの断定をつくりだすことである。ひとつの合意が生まれるときには、同時にそこに排除がはたらいている。討議民主主義は「合理性や道徳性のヴェールのもとで既存の排除の形態を隠蔽する」ことに加担する、とムフは考える。 ムフによれば、私的領域という圏域を設定して公共的とみなされる問題のみについて理性的な議論のうちに合意を見いだすという構想は幻想的なものであり、むしろ民主主義を縮減してしまうものである。民主主義において対立や衝突は、不完全の徴であるどころか、民主主義が生きており、多元主義のうちに宿っていることを示すものということになる。かくしてムフは闘技的複数主義を民主主義の基本原理として提起する。 ただし、ムフの理路には承服しがたい点が少なからずある。 本書では、英国のトニー・ブレア前政権に対しては当然ながら厳しい批判を加えている。ブレアが率いた新労働党は「伝統的な左右対立を超克する」形で「ラディカルな中道」を訴えた。ムフはそれに対し「左翼アイデンティティ」の「放棄」として批判するのだが、むしろそうすることによって政権を奪取できたのであって、現実に政治を担う政治家が彼女が主張するような先鋭的な理念や政策を繰り返すだけではコアな支持者から喝采を浴びても広範な支持を得ることは出来なかっただろう。 またそれ以上に疑問を感じるのは、ムフが提唱する「抗争性から闘技への転化」はいかなる形で可能となるのかという点だ。その具体的な制度設計や政治の形式にはほとんど言及されていない。この点に関しては熟議民主主義の陣営からも「闘技の成立条件に十分な関心を払っていない」(田村哲樹『熟議の理由』)などと批判的な指摘がなされている。 とはいえムフによる合意志向に対する徹底的な異議は、討議民主主義理論に再考を迫るだけの論点を含んでいることも事実である。その結果、闘技性を織り込んだうえでの討議民主主義理論もあらわれてきている。その意味では、対立の局面を重視せよというムフの主張じたいが対立の緩衝になっている可能性も考えられる。民主主義の逆説を言うムフの理論にもまた良い意味で逆説は生じうる。
by syunpo
| 2011-05-22 19:37
| 政治
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