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総合藝術としての文学〜『アナレクタ2 この日々を歌い交わす』

●佐々木中著『アナレクタ2 この日々を歌い交わす』/河出書房新社/2011年6月発行

総合藝術としての文学〜『アナレクタ2 この日々を歌い交わす』_b0072887_8471882.jpg 佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』は多くのアーティストや出版関係者に勇気と希望を与えた。その一方で、東浩紀や福嶋亮大らからは批判も寄せられた。いわく、情報の世界に背を向けてただ文学の勝利を謳うのは反動ではないのか、と。佐々木はあらためてそうした類の異論に再批判を試みている。

 ……問題はテクストの書き換え、すなわち能う限り広い意味での、「文学」の問題なのだということです。
 これを夢想的だとか文学至上主義だとかロマン主義だとか何とか言っている人は、さっさとその下らない内輪のお喋りや雑文書きをやめて暴力を振るうなりカネを稼ぐなりすればいい。情報社会だから云々なんて現状追認的なことを言う連中にかぎって自分ではコードすら書けない。つまりプログラム言語ひとつマスターできていない。僕の定義ではコードを書くことだって純然たる文学だし藝術です。みなさんの周りにもいると思いますが、美しいコードが書ける人はコードはアートだと普通に言いますよ。(p178)


 佐々木の「情報」批判は、しかし、こうしてみると両義的である。情報社会を支えるプログラム言語もまた広義のアートであり文学だというならば、「情報」もまた「文学」に包括され得ることになるだろう。情報社会を謳歌しようぜと叫ぶ論客も、それを批判する佐々木も、結局は似たような場所に立っているのではないか。喉の渇きを癒すべく水を飲むように、人は文学を糧とする。同様に一片の情報が人の生命を救うこともあり得えよう。
 ついでにいえば、本書に収録された対談で佐々木が所々で口にしている弛緩した現代風口語の醜悪さに比べれば、東浩紀が某情報媒体に書いている時評文の日本語の方がまだしも「美しい」し「文学」的だと思う。
by syunpo | 2011-07-10 08:52 | 思想・哲学 | Comments(0)
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