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「日本病」を告発する〜『福島原発の真実』

●佐藤栄佐久著『福島原発の真実』/平凡社/2011年6月発行

「日本病」を告発する〜『福島原発の真実』_b0072887_1902397.jpg 著者の佐藤栄佐久は福島県の前知事である。原発問題や道州制などで自民党政府の方針と対立し「闘う知事」として名を馳せたが、任期途中で県発注のダム工事をめぐる汚職事件で追及を受け辞職。その後、東京地検に逮捕され一審・二審で有罪判決を受けたものの、二審では「収賄額ゼロ」の認定を得た。

 本書は著者の県知事時代、福島原発をめぐって当時の自民党政権や経済産業省、東京電力など強固な原発推進勢力と対峙した生々しい記録である。裁判で係争中の身分であることや問題の生臭さを考えれば、本書の記述内容を無批判に受け取ることには慎重であらねばならないことはいうまでもないが、関係者の発言内容などは議事録や新聞記事でトレースできる部分も多いうえに、本書の内容に虚偽が含まれているという話も今のところ聞かない。大震災後の刊行だけに際物的な印象を与えかねないけれど、福島県の原発をめぐる一当事者の記録として本書は充分論評に値する本といって良いだろう。

 戦前から首都圏にエネルギーを供給してきた自治体の首長として、当初は原発の稼働にも協力的だった佐藤がどうして対立的な姿勢へと変転していったのか。
 原発推進官僚の虚偽や情報隠蔽、データ改竄が常態化した東電の不誠実な態度、官僚を統制できずに無為な時間を過ごした自民党の政治家たち……。国が安全確認した原発が自治体の意向で運転できないときには電源三法交付金をカットするという方針を経産省が打ち出して恫喝するなど、およそ民主政とは相容れないような対応の連続に佐藤は原発推進勢力に不信感を募らせていく。
 佐藤が繰り返し述べていることは、情報の開示や政策決定の透明化・民主化の必要性という類のごく真当なものであり、決して反原発や反体制的というような過激なものではない。それでも「闘う知事」の異名を頂戴してしまったところに、日本の中央集権的行政の異様さがあるというべきか。

 ところで開沼博の話題作『「フクシマ」論』でも佐藤の知事時代の言動については多く言及されている。そこでは〈中央−地方−原子力ムラ〉という三層構造の〈地方〉に位置する中間者としての微妙で困難な立場が詳述されていた。開沼の結論的な認識は「金権政治のもとで、中央に懐柔されていく地方」といった単純な図式には還元されない現実、いわば原子力ムラの「自動的かつ自発的な服従の姿勢」というものである。その認識のもとに佐藤知事の言動は「保守本流であるがゆえに反原子力へと転じた」というわかったようなわからないような解釈がほどこされていた。
 しかし本書の記述にしたがって福島県(知事)という一点からこの問題を見ていくならば、時には手段を選ばず地方を手玉にとろうとする中央政府とそれに何とか対抗しようとする県──という明快な図式が浮かび上がってくる。それを佐藤は米本昌平の言葉を引いて「パターナリズム」という一語で表現している。ここに保守だの革新だのという手垢にまみれた政治用語を不用意に持ち出すのはかえって議論を混乱させるだけのように思える。

 あるいは「官僚内閣制」という観点からみるとどうだろうか。原発の問題こそはまさにその真骨頂があらわれているというべきかもしれない。経産省とその傘下にある資源エネルギー庁という官僚組織がブルドーザーを突進させるがごとく既定の政策を推進し、与党政治家はそれを追認していただけ。官僚は匿名性によって保護されているし人事異動も頻繁だから、問題が生じた時に個人的に責任を追及されることはほとんどない。
 戦後まもなく日本では誰も責任をとろうとしないと丸山眞男を嘆かせた事態は今日においても形を変えて生きつづけているのである。丸山は一九四五年八月一五日をもって日本の政治体制は変わったという「八・一五革命説」を唱えたが、「無責任体制」は戦後にも見事に受け継がれたのだ。佐藤は丸山に直接言及しているわけではないけれど、そのような「責任者の顔がみえない」病理的状況を「日本病」と名づけ、痛烈に批判している。
 ちなみに付け加えておけば、佐藤とともに逮捕された佐藤の実弟を取り調べた検事が「(佐藤)知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」と話したことが検事の実名入りで記されている。「官僚内閣制」とは司法官僚である検察庁をも含んだ統治システムであることが理解できよう。

 本書は「福島原発」という一点に絞って叙述された書物であるが、結果的には日本という国の行政が抱える様々な病態を抉り出すことになった。といっても政治的に失脚した著者自身がメスを持つ医師のような特権的な場所にいるわけではもちろんない。
 末尾に刻まれた慟哭の言葉には胸が塞がれるような思いがする。

 「もし、原発事故が収束してふるさとに戻れるときが来たとしても、子どもをもつ家庭はおそらく戻ってこられない。結局老人ばかりの地域になるのではないか」
 いま、避難を続けている原発立地地域の人たちは、顔を寄せあってこんな話をしていると、やはり避難を余儀なくされている富岡町の友人が教えてくれた。福島県民は、いま、こうして責任をとっている。どうやら、次の世代にきれいな地域を渡すことはできない見通しとなってしまった。「世代間の共生」は不可能になったのだ。

 しかし私たちは、「嘘」を乗り越えて、いまこそ真実をつかまなければならない。

by syunpo | 2011-09-06 19:15 | 政治 | Comments(0)
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