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駆け引きから審議へ〜『日本の国会』

●大山礼子著『日本の国会──審議する立法府へ』/岩波書店/2011年1月発行

駆け引きから審議へ〜『日本の国会』_b0072887_196030.jpg 国会は言論の力を競いあうよりも与党対野党の駆け引きの場となってしまった。審議を通じて法案の問題点を明らかにする努力は十分とはいえなかった。野党の意見を容れて法案が修正されることもあったが、与野党の協議は国会外で行なわれてきたので国会審議の活性化にはむすびつかなかった。
 現在みられるような国会審議の空洞化をもたらした最大の要因は国会の制度にある。本書はそのような認識から日本の国会のあり方についてもっぱら制度に着目しながら、いかに審議の実質化をはかっていくかを探究したものである。

 もともと議院内閣制とは内閣が指導力を発揮しやすい制度ではあるが、日本のそれはアメリカ・モデルを随所に採り入れているため通常の議院内閣制に比べると内閣の立場は弱い。また何かとモデルにされるウェストミンスター・モデルは日本の議院内閣制とその歴史的背景や制度設計に大きな相違があり、大山はいたずらな理想化には疑問を呈している。
 また国会の立法機能と行政監視機能を「車の両輪のような関係」とみて、後者の機能の強化を訴えているのも注目されるだろう。たとえば民主党政権が行政刷新会議を舞台に始めた事業仕分けについて本来は国会の仕事だと述べ、国政調査権を活用して所管の委員会などで行なうことを提案しているのは筋が通っているように思える。

 民主党やマスメディアが肯定的に論じることの多い「政府・与党の一元化」に関して否定的な見解を示している点はとくに勉強になった。
 そもそもヨーロッパでは閣僚と議員の兼職を禁じている国も多く、政府と与党は一体化していない。政府と与党はそれぞれ自立した存在であるので両者の意見に相違がみられるのは当然で、だからこそ政府提出法案であっても審議に際しては与党議員も独自の立場から法案を吟味し、必要とあらば修正案を提出することもあるだろう。大山のいう国会審議の充実化とはまさにそのようなことを指している。

 このような「政府・与党の一元化」否定論は言葉面だけをみると飯尾潤らが提起した「政府・与党の一元化」論と真っ向から対立しているようにもみえるが、議論の次元をいささか異にしている点には注意が必要だろう。飯尾は、国会審議以前の問題として長期政権を維持してきた自民党内における政策審議機関が実力を持ちすぎ、内閣とは別に政策を動かしてきた、その結果、権力と責任の所在が曖昧になってきたことを批判しているのである。
 もともと内閣と与党(議員)とは別個の存在なのだから、法案の調整や協議を現行のような舞台裏ではなく国会という明るみに持ち出して、そこで堂々と審議をやればよいという大山の主張は必ずしも従来の「政府・与党一元化」論と対立するものではなかろう。
 
 それにしても著者の公式資料の読み方はこれで良いのだろうか。大山は日本の国会の議員立法について他の先進国と比べてその割合の高いこと、田中角栄が議員立法に熱心であったことなどを指摘している。
 しかし名目上は議員立法として記録されている法案でも実質的には内閣提出法案であるというケースも存在する。たとえば田中角栄の議員立法ということになっている建築士法。実質的には内閣提出法案であったが、諸般の事情で田中角栄の名前を借り議員立法の形にして提出されたことが明らかにされている。(※)
 本書の叙述が制度上の建前論にいささか傾きすぎている点も含めて、ほかにも公的な資料・記録が無批判に参照されている個所はいくつもあり、そのような記述部分が実態とズレている懸念は拭いきれない。

 またいくら立派な国会制度を再構築しても、国会審議にはさして関心を払わず政局報道に血道をあげ政治不信を煽っては悦に入っているマスメディアの成熟抜きに国会の活性化は難しかろう。
 もちろん国会制度の設計思想をよく知らないままに思いつきで断片的な国会改革論が飛び交う状況は好ましくないことは事実だろう。日本の国会制度の原理・原則をきちんと認識するという点では本書はきわめて有意義な本であることは間違いない。


※猪瀬直樹著『欲望のメディア』を参照。
by syunpo | 2011-09-14 19:24 | 政治 | Comments(0)
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