●アマルティア・セン著『アイデンティティと暴力 運命は幻想である』(東郷えりか訳)/勁草書房/2011年7月発行
私はアジア人であるのと同時に、インド国民でもあり、バングラデシュの祖先をもつベンガル人でもあり、アメリカもしくはイギリスの居住者でもあり、経済学者でもあれば、哲学もかじっているし、物書きで、サンスクリット研究者で、世俗主義と民主主義の熱心な信奉者であり、男であり、フェミニストでもあり、異性愛者だが同性愛者の権利は擁護しており、非宗教的な生活を送っているがヒンドゥーの家系出身で、バラモンではなく、来世は信じていない。(p39) アマルティア・センは自己をそのように規定している。センにとってアイデンティティとは一人の自由な個人がもつ多面的・複層的な概念にほかならない。それは個人が理性によって選びとるものである。人が生まれながらにして有する生来の属性はあるが、どの属性を優先させるかは個人が選択すべきものなのである。 多元的アイデンティティが混在する世界をきちんと理解するには、われわれには忠誠を尽くす対象も帰属関係も複数あるという認識について考える明晰さが必要になる。(p142) 以上のようなセンの認識からすれば、当然ながらハンチントンの『文明の衝突』やマイケル・サンデルらの共同体主義は厳しい批判の対象となる。彼らの認識にたつと自分のアイデンティティは「発見」するものでしかないからだ。アイデンティティは「発見」するものではなく、みずから選びとるものである。センは本書において繰り返しそのことを強調している。 したがって「文化によって定められた運命」というような認識や国を宗教と共同体の連合と見なすような態度もセンは斥ける。さらにグローバル化の「西洋的」要素を批判するために非西洋的アイデンティティ(イスラム原理主義、アジア的価値観、儒教倫理などなど)を賞賛するような言説に対しても「分離主義の火に油をそそぐもの」としてセンは否定的である。 九・一一以降、以前にもまして浸透した文明間の対立という俗耳になじみやすい世界観を相対化するうえで、本書はきわめて有益な視点を提供してくれるものだ。
by syunpo
| 2012-02-25 10:05
| 思想・哲学
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