●五野井郁夫著『「デモ」とは何か 変貌する直接民主主義』/NHK出版/2012年4月発行
デモに関しては昔から否定的な意見が少なくない。そんなことをしても社会そのものを変えることはできないのだ、と。 だが柄谷行人は述べている。「デモによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、デモをすることによって、日本の社会はデモをする社会に変わるからです」。デモ一つ満足にできない国がいかに非民主的で息苦しい国であるかを考えれば、柄谷の発言はあながち無意味なトートロジーともいえない。 本書は日本におけるデモという政治の表現をめぐって歴史的に考察した本である。東日本大震災後に大規模なデモが澎湃としてわき起こっている現在、時宜にかなった書物といえるだろう。 かつて丸山眞男は民主政治について、国会などの議会内政治を「院内」の政治、人びとによる議会外での社会の力、すなわち社会運動を「院外」の政治と区分し、双方の持つ重要性を説いた。本書においても基本的にその認識に立ちながら「院外」活動としてのデモに注目する。 五野井の見方で面白いのは、米騒動から大正デモクラシーに始まったメーデー、安保闘争や原水爆禁止運動、ベ平連やフォーク・ゲリラなどの活動を駆け足で検証した後に、一般に政治活動が低迷したといわれている八〇年代に関してもそれなりに評価を与えている点だ。生協の躍進やコム・デ・ギャルソンの出現などの例を引き、それらもまた政治の意思表示とみなすのである。すなわち院外の政治表現の戦場が路上から誌面、広告、あるいは生活へと移り変わったものとして捉えるのである。 今日においてふたたびデモという「院外」の政治が息を吹き返したことは重要である、と五野井はいう。それはかつての暴力を肯定したものから非暴力の祝祭的な運動へと転換し、サウンドデモに象徴されるような楽しみながら行なわれるものへと変貌を遂げている。そうした直接民主主義の行動が日本全体の空気を変えてゆく可能性をもつ。 いま、わたしたちが持っている政治の幅は、議会制民主主義というルールの幅だ。その「院内」の政治の幅と、わたしたちの生活の幅が一致しない場合、かつ、「院内主義」からくるところの、いわゆる「院外」の力の軽視が看守される場合は、わたしたちは自分たちの未来と将来世代のために何をなすべきか。端的にいえば、デモをすることだ。それが「院外」の政治たる直接民主主義の表現となるのだ。(p208) 脱原発デモが盛り上がっている中で行なわれたいくつかの選挙では、脱原発を強く訴える候補者が勝利できなという結果が続いている。直接民主主義の表現が院内の政治に必ずしもリンクしない状況は依然として残っているのだ。その点を厳しく見れば、本書にみるデモへの高い評価については否定的な見解もありうるだろう。けれどもデモという政治表現について考察を深めるうえで、本書が有益な入門書であることは間違いない。
by syunpo
| 2012-08-09 09:52
| 政治
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