自己内省的近代へ〜『危険社会』

●ウルリヒ・ベック著『危険社会 新しい近代への道』(東廉、伊藤美登里訳)/法政大学出版局/1998年10月発行

b0072887_105388.jpg 原著が刊行されたのは一九八六年。奇しくも世界中を震撼させたチェルノブイリ原発事故が発生したのと同年である。こののち日本では二度の大震災を経験し、二度目の震災時には原発事故が重なった。幸か不幸か本書が引用される機会も増えたように思われる。

 本書にいう危険(Risiko;risk)とは、核エネルギーによる環境破壊や化学化合物の害毒などをさすが、家族の紛争や雇用問題における危険も含まれる。
 ベックによれば、近代における産業社会は多くの危険を生み出した。それは〈危険社会〉と名付けうるものである。そこでは近代が近代についての問題を自己言及的に考察せざるをえない状況がおとずれる。それが〈自己内省的近代〉である。人によっては〈第二近代〉とか〈ポスト・モダン〉と呼ぶのと同じような問題意識による命名といえるだろう。

 産業を支えてきた科学もまたみずからが生み出した種々の危険についての対処を迫られるようになってきた。〈単純な科学化〉から〈自己内省的科学化〉への移行である。このような段階では科学はそれ自身の基盤に対しても懐疑の目を向けていくことになり、その懐疑に耐え得ない場合にはごまかしや真理の追求という使命の放棄が発生するだろう。

 近代社会にあっては富をいかに分配するかが大きな課題であったが、危険社会では危険をいかに処理し分配するかが大きな問題となる。そこでは〈社会/自然〉という対立は無効化され、自然もまた社会環境の一部に組み込まれる。

 危険社会の到来はまた政治の変化を伴うことはいうまでもない。危険社会の下では、科学・技術・企業・医学など、かつては政治的な権能をもっていなかったセクションがさしたる監視もないままに政治的決定を行なうようになる。従来の〈政治〉に対して〈サブ政治〉の存在が相対的に力をもつようになるのである。

 ベックの分析は当時のドイツの社会状況を色濃く反映したものと思われるが、原子力の危険性に関する警告のみならず、政治の機能低下や完全就業から部分就業への移行(日本では非正規雇用の増大という形で社会問題化している)といった事象を含めて、二十五年後の日本においてますますリアリティを帯びてきている。

 もっとも最後にベックが提起する対策は、危険に対抗するようなサブ政治──司法や市民運動──の強化を促すといういささか拍子抜けするようなものである。
 またベックが指摘した危険社会のその後の推移は、おそらくベック自身もあまり想定していなかった展開をみたのではあるまいか。すなわち危険どうしの競合という局面がせり出してきたのである。そこでは一つの危険が強調されることで別の危険が隠蔽されるという現象が生じた。端的にいえば、地球温暖化という危険が原子力エネルギーの危険を等閑視するような役割を果たしたのである。地球温暖化の警鐘を鳴らした人間すべてが原発を肯定したわけではもちろんないけれど、原発推進派が地球温暖化の問題を悪用したことはまぎれもない事実である。少なからぬマスメディアもその世論形成に貢献した。
 その意味では、ベックが肯定的に評価した「マスメディアの受け手としての強力かつ独立した大衆」の存在もまた不確かなものといわざるをえない。他のサブ政治の主体と同様に、独立した大衆にもまた自己内省が求められるだろう。
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by syunpo | 2013-01-14 10:17 | 社会学 | Trackback | Comments(0)
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