●村上龍著『歌うクジラ 上下巻』/講談社/2010年10月発行
舞台は二一一七年の世界。理想的な社会が実現されたはずの世界を旅する十五歳の少年の成長譚という古典的スタイルをとりながら、村上龍は近未来のユートピアならぬディストピアのありさまをSF小説風に描き出した。そのような社会における人間の生きる意味とは何なのか──。 二〇二二年、ハワイの海底でグレゴリオ聖歌を正確に繰り返し歌うザトウクジラが発見される。そのクジラは推定年齢が一四〇〇歳、老化を促すテロメアという遺伝子を修復する酵素を大量にもっていた。そこから人類は不老不死の遺伝子を手に入れることに成功し、SW(Singing Whale)遺伝子と命名した。 移民人口が増加した日本で移民反乱が起こる。二度の反乱を鎮圧した国家社会で進められたのは「文化経済効率化運動」と「最適生態」による棲み分け、すなわち上・中・下層の徹底した階層化であった。ノーベル賞受賞者や宇宙飛行士など功労者にはSW遺伝子の恩恵が与えられ、逆に犯罪者はテロメアを切断されて急激な老化による死亡という制裁が加えられた。そうした冷厳な棲み分けと管理によって社会は秩序と安定を得たかのように思われた。 流刑地「新出島」出身で下層に属する少年タナカアキラは、社会全体を破壊できる爆弾のような価値を持つICチップの機密情報を父から託され、老人施設にいる偉大なる政治経済学者のヨシマツに渡すために新出島を脱出し本土へと向かう。 突然異変の特徴をもつ「クチチュ」なる新人種のサブローさんや反乱移民の末裔たちとタナカアキラは行動をともにすることになるのだが、旅の途上で彼が目にした上層社会の実態は案に相違して寒々としたものだった。不老不死を手に入れたはずの彼らはかえって生命力を失ってしまい、多くの人が床ずれによる壊疽で理想村の病院に横たわり、ロボットによる治療を静かに受けていたのだ……。 いくつもの試練を乗り越えてヨシマツとの対面を果たしたタナカアキラに待っていた運命とは? その壮絶な旅の果てに少年が学んだものは何だったのか──? 脳科学やサル学をはじめとする動物生態学などの知見を随所に取り入れているだけあって、ここに描かれた世界はあながち荒唐無稽ともいえない。あちこちに放射能廃棄物が埋められているという設定は、三・一一後を経験した後に本書を手にした読者にはいっそう切実な思いを喚起させる。また理想郷が実は人間的な繋がりも活力も欠いた廃虚と化していたというアイロニーは、理想と退屈や暇との関係の問題を哲学的に考察したハイデッガーやラッセル、國分功一郎らの仕事とも共振するだろう。 終結部や道中の少なからぬところで描写がいささか説明調に傾き、退屈を感じる箇所もなくはないが、勉強家の村上らしいチャレンジングな作品であることは間違いない。
by syunpo
| 2013-06-05 20:51
| 文学(小説・批評)
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