●中村文則著『掏摸』/河出書房新社/2009年10月発行
……遠くには、いつも塔があった。霧におおわれ、輪郭だけが浮かび上がる、古い白昼夢のような塔。 この塔のイメージは本作において繰り返し出てくる。それは実際にどこかで見た光景の残滓かもしれないし、ある種の幻影かもしれない。どうであれ鮮明さを欠きながら遠くに屹立している塔の映像は主人公の心象風景としてある。のみならず、本作の核心を成すイメージともいえるだろうか。天空に向かってそそり立つ塔は誰にも抗えない〈運命〉の象徴のようでもあれば、人間の一挙一動を高みから見下ろす神や良心の眼差しの隠喩のようでもある。 主人公の〈僕〉は天才的な技量をもつスリ師。指を伸ばした先にある快楽と確かな熱に突き動かされながら、人混みの中で裕福な人物を選り抜き、財布を抜き取る。その手練手管の技術と心理の綾をヴィヴィッドに描き出す筆致は、本作の売りの一つといっていいだろう。 スリの手腕に加えて、世界から孤立した自由人であることから、〈僕〉は闇の権力者・木崎に利用されることになる。超絶的な指の技巧を持つ男が、他人の〈運命〉を支配することに生き甲斐を見出した男の手の平で躍らされるというアイロニー。その不条理の世界を淡々と泳いでいく〈僕〉は、その一方で折に触れてかつての恋人を想起し、母の命令で万引きを繰り返す少年を見つけて幼い頃の自分と重ね合わせ世話を焼いたりする。集団を拒否し健全さと明るさを拒否しながらも〈僕〉はこの世界で人間的な温度の伴った関わりを持とうとするのだ。 主人公ははたして木崎に握られた〈運命〉を覆すことができるのか。スリとして存在することに実存的な意義を再発見した時、〈僕〉の指は他人の書いた〈運命〉の物語を動かすことができるだろうか──。
by syunpo
| 2013-06-08 20:19
| 文学(小説・批評)
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