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支配・被支配構造の本質〜『自発的隷従論』

●エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著『自発的隷従論』(山上浩嗣訳)/筑摩書房/2013年11月発行

支配・被支配構造の本質〜『自発的隷従論』_b0072887_8315065.jpg エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは一六世紀フランスに生きた司法官であり政治理論家でもあった。本書はモンテーニュによると、ラ・ボエシが十六歳か十八歳のときに書かれた論文なのだという。解題には永い間の誤解・曲解を経て「啓蒙主義時代の社会契約説に通じる先駆的理論を提示した政治哲学の古典であるとの評が確立されつつある」との文言が記されている。

 本書の趣旨は冒頭、明快に提起されている。「ここで私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただひとりの圧政者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどのようなわけか、ということを理解したいだけである」。

 ラ・ボエシは圧政者を三者に大別している。「民衆の選挙によって」「武力によって」「家系の相続によって」それぞれ国家を所有する者という分類だ。興味深いのは、民主的な方法によって選ばれた最初の圧政者が「不思議なことに、ほかの種類の圧政者を、ありとあらゆる悪徳において──残酷さにおいてすらも──どこまでも凌駕してしまう」と断定している点だ。実証的に書いているわけではないけれど、現代人はヒトラーのような実例を知っているだけについ首肯してしまいたくなる。

 だが本書の眼目はやはり書名にあるように自発的隷従という点に存する。ラ・ボエシはいう。いかなる隷従も自発的なものでしかない、と。

 その者(=ひとりの圧政者)の力は人々がみずから与えている力にほかならないのであり、その者が人々を害することができるのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからにほかならない。(p11)

 ゆえに圧政を退けるためには暴力は必要ない。圧政者は民衆がただなにもしないだけで自壊するというのだ。むろん現実の世界では事はそう簡単なものではないだろう。しかし「モンテスキューよりも二世紀も前に、一者による専制がもたらす権力の濫用を告発した」(山上浩嗣)こと、「マルクスはもとより、ニーチェの試みに三世紀以上も先んじて、人間の堕落と疎外について考えた」(ピエール・クラストル)ことなど、本論の先見性を指摘する声は多い。彼が生きた時代の後に絶対王政の時代が到来したことを考えれば、なおさらである。また古今のテクストから史実を拾いあげてくる手つきにもそれなりのセンスを感じさせるものがある。

 なお本書にはラ・ボエシに深く触発され二〇世紀に書かれた二つのテクスト(シモーヌ・ヴェイユ「服従と自由についての省察」、ピエール・クラストル「自由、災難、名づけえぬ存在」)が付論として併録されている。
by syunpo | 2013-12-28 08:39 | 思想・哲学 | Comments(0)
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