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未来を探る旅〜『縄文聖地巡礼』

●坂本龍一、中沢新一著『縄文聖地巡礼』/木楽舎/2010年5月発行

未来を探る旅〜『縄文聖地巡礼』_b0072887_1932367.jpg 諏訪、若狭・敦賀、奈良・紀伊田辺、山口・鹿児島、青森。日本に残された縄文的文化の聖地に音楽家と宗教学者が巡礼する。本書はその旅と対話の記録である。
 それにしても今、何故「縄文」なのか? 縄文的文化を称揚する声はこれまであまた発せられてきたが、本書における縄文への関心は現代社会に対する危機感の裏返しによるものである。九・一一が象徴するような「圧倒的な非対称」、グローバリゼーションがもたらした世界的規模における貧富の差の拡大を目にするとき、等価交換原理に基づく貨幣経済を中心に回っている現代文明の限界を見出さずにはいない、というのが二人の共有する認識である。そこで国家をもたず贈与経済で動いていた縄文的文化を見直すことの可能性があらためて浮上してくるというわけだ。中沢はいう。

 私たちがグローバル化する資本主義や、それを支えている国家というものの向こうへ出ようとするとき、最高の通路になってくれるのが、この「縄文」なのではないでしょうか。(p10)

 縄文の聖地を歩くことで見えてきたものは何か。たとえば中沢は諏訪地方に死とエロスの残存を見いだして、現代のシステム論に読み替える。「死とエロス、つまり腐敗と再生の要素が入ると、循環・浄化のシステムができる。それがないと廃棄物が過剰になっていく」。
 過剰な廃棄物の深刻な例の一つが核廃棄物であることは言を俟たない。「坂本さんと一緒に縄文の聖地を歩きながらそのことを考えていると、原発のようなものを根源的に乗り越えていく発想をつくっていくことが可能なんじゃないかという気がするんです」という中沢の発言はいささか素朴にすぎるのではないかとの批判もあるかもしれない。しかしこうした二人の対話の基本的な枠組みは、その数年後に中沢と國分功一郎との間で交わされた『哲学の自然』にも受け継がれていて、その意味では超原発的な発想が福島での事故によって出てきた俄拵えのものではないことが理解されるだろう。

 坂本もアーチストとしての直観的発言もさることながらスティーヴン・ミズンやピエール・クラストルを引きつつ知的な対応ぶりをみせていて議論をうまく展開させてる。むろん〈アースダイビング〉的な二人の対話はアカデミズム的見地からすると粗雑で誤謬も含まれているかもしれないが、未来に向けての示唆が多分に盛り込まれていることもたしかだろう。
by syunpo | 2014-01-06 19:08 | 文化全般 | Comments(0)
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