●福岡伸一著『動的平衡ダイアローグ』/木楽舎/2014年2月発行
二〇世紀前半に活躍した生化学者、ルドルフ・シェーンハイマーは「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」と宣言した。われらが福岡伸一はその命題をさらに拡張して生命を「動的平衡にあるシステム」だと定義づける。秩序は守られるためにたえまなく壊されなければならない、生命とは互いに相反する動きの上に成り立つ同時的な平衡=バランスである、と。 本書はそのような認識を共有する人々と福岡が対話した記録である。相手は、カズオ・イシグロ、平野啓一郎、佐藤勝彦、玄侑宗久、ジャレド・ダイアモンド、隈研吾、鶴岡真弓、千住博……と多彩な顔ぶれ。ここに登場する人々はアプローチの方法こそ異なるものの、いずれもそれぞれのやり方で動的な世界を表現しようと格闘している人たちということができるだろう。 生命が動的平衡にあるシステムとするなら、私たちはどうやって「私は私である」という自己同一性を保つことができるだろうか。その一つが「記憶」なのではないか。カズオ・イシグロとの対談ではそれがメインテーマとなる。「記憶は死に対する部分的な勝利」というイシグロの発言などは文学者にしてはいささか陳腐ではあるけれど、科学と文学(芸術)の相補性に関する福岡の言葉には本書のコンセプトそのものが凝縮されているようにも思われる。 その意味では仏教者でもある小説家・玄侑宗久との対話にはより深長な読み応えがあった。福岡の生命観と仏教のそれとの類似性に言及しながら玄侑はいう。 現代人にとって、自分が観察者となって移りゆく世の中を眺め、「世界は変化し続けている」と思うことは難しくないと思うんです。でも、「そう思う自分も、無常に変化しつつある」と知ることは決して簡単ではない。(p108) そのうえで言明する。「いくらでも揺らいでいい、いや、むしろ揺らいだほうがいい。そう思えたら、いまよりずっと楽に、そして強く生きていける」と。 ジャレド・ダイアモンドとの対論では、福岡がダイアモンドの人類学的な知見に関心を向け、「他人に迷惑をかけない」という日本に根付いている規範が世界共通のものではないことが確認される。生存競争の厳しい社会では「独立性」や「タフで強いこと」などサバイバルに必要な規範が優先されるのである。 美術文明史家・鶴岡真弓とのケルト文化論も示唆に富む。ケルトの渦巻き文様に生物の成長と同時に諦念の象徴を見出したうえで、福岡は「この世界に一貫性や整合性を求めるのは人間だけで、生命がしていることは、常に自らを壊して新たにつくり替えることだけ。むしろそこに、生命が本来もつ自由の源泉もある」との認識を示す。 千住博との対話では生命の色としての青にまつわる話に始まり、プロセスの積み重ねとしての芸術、ケオティック・オーダー(秩序ある混沌)としての生命体……という具合に、やはり「動き」が鍵言葉となる。「人間は、動きに反応することはできても、動き続けているものを記述することはできない。だから、科学は、生きているものを殺し、それを止まった情報にすることで対象を理解しようとしてきたわけです」という福岡の自省的な言葉が印象に残る。 文化・芸術全般に対する福岡の並々ならぬ素養と好奇心がうまい具合に対談相手と絡んで、互いに発話が熱を帯びてくる様が読者にも伝わってくる。福岡のいう「エッジエフェクト(界面作用)」の効いた、じつにおもしろい対談集である。
by syunpo
| 2014-06-21 11:47
| 文化全般
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