言葉を壊し言葉を再発見する〜『やっぱり世界は文学でできている』

●沼野充義編著『やっぱり世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義2』/光文社/2013年11月発行

b0072887_1963532.jpg《対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義》として二〇一二年に刊行された『世界は文学でできている』の続編。ホスト役の沼野充義が六人のゲストと対談した記録である。今回の相手は、亀山郁夫、野崎歓、都甲幸治、綿矢りさ、楊逸、多和田葉子。

 それぞれの対話に一貫した流れがあるわけではないが、本書全体の基調となっているテーマをあえて抜き出せば「越境」ということになろうか。前半の三人は外国語文学研究や翻訳の問題を通してその主題に接近していくことになるだろう。後半は、綿谷を除いて文字通り越境的に創作を続けている二人の作家が登場する。

 ただ対談の内容は総じて私には退屈だった。なかで精彩を放っているのは多和田葉子。多和田には僧院を舞台にした『尼僧とキューピッドの弓』という傑作があるが、この作品の構造を先取りするような作品『飛魂』がその十年以上前に書かれている。『飛魂』のあとに多和田自身が実際に僧院に滞在する体験をすることになった。

 ある体験をしてから小説を書くというのではなくて、まず小説を書くことによって、後の人生で何かを体験することが初めて可能になるという、普通考えるのとは逆の流れが、もしかしたらあるのかもしれません。(p322)

 また読者のことをどう想像しているのか、という質問に応えて。

 日本語で書く場合は、特定の読者を想像しなくても、日本語そのものの中にあらかじめたくさんの読者が含まれています。私が書き手で、どこかに読者がいるという感じではなくて、日本語の中に私が入り込むことで、何らかの動きをもたらして言語共同体全体をゆすぶってみたい、そんな感じです。(p339)

 作家の自作解説や楽屋話は得てしてつまらない場合が多いけれど、このような箴言に出会うと作家の発言を読むことの甲斐も少しは感じられる。またカナダで書いたという詩を朗読しているのも一興。

 蛇足ながら、フランス文学者・野崎歓の発言にも触れておこう。翻訳に関する対話のなかで、野崎は「翻訳者には、瞬間的に目が見えなくなってしまうときがあって、代名詞をとりちがえたり簡単な名詞を訳し間違えたりといった単純なミスがどうしてもつきまとう。だから、そういうことが人間として許せないという人にはできない仕事」と語っている。いかにも『赤と黒』の誤訳問題で読書界を騒がせている人らしい発言というべきか。翻訳に誤訳はつきものとはいえ、自身に向けられた批判は一つや二つの単純なミスを指摘したものではない。訳稿と原文の突き合わせはしないのか。やっぱりこの人の名がクレジットされた訳書には手を出さない方が良さそうだ。
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by syunpo | 2014-11-20 19:15 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)
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