●ピエール・バイヤール著『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳)/筑摩書房/2008年11月発行
安直なハウツー本のような書名ではある。たしかにそのような要素も含まれてはいるけれど、基本的にはヒューモアや諷刺精神が随所にまぶされた読書理論、批評論の書といっていいだろう。 まず驚かされるのは、脚注に記している参照文献についていちいち四つのカテゴリーを明示している点だ。 〈未〉ぜんぜん読んだことのない本 〈流〉ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本 〈聞〉人から聞いたことがある本 〈忘〉読んだことはあるが忘れてしまった本 「ちゃんと読んだ本」という単純なカテゴリーが存在しないことは要注目。この表示によれば、著者はムージルの『顔のない男』は〈流〉で、ジョイス『ユリシーズ』は〈未〉、フロイト『夢解釈』は〈忘〉だそうな。ついでにいえば本書が言及している小説のなかにでてくる架空の書物もリストアップされていて、バイヤールの茶目っ気のほどがうかがえる。 著者にとって「きちんと読む」「精読する」というような行為はハナからありえないことなのだろうか。いや問い方を変えよう。そもそも読むことと読まないことに明確な境界は存在するのだろうか。著者の答えは「否」である。 「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別できるということを前提としているが、テクストとの出会いというものは、往々にして、両者のあいだに位置づけられるものなのである。(p8) 読むという行為はその中身を突き詰めれば様々でありうるし、読んでいない本に関しても人の噂や情報などをとおして何らかのイメージを得ることができる。ゆえに私たちの書物に対する経験は〈読んだ/読まない〉という二分法によって仕切られるのではなく、その両極のあいだにグラデーションをもって分布するということになるだろう。もちろんそうした説明だけではわかりにくいかもしれない。が、とにもかくにも上に引用した認識こそは本書全体をとおして基調となる考え方なのである。 書物は読まれ方あるいは語られ方によって、様々な相貌を私たちの前にあらわすことになる。本書の見立てでは書物には三種類ある。〈遮蔽幕としての書物〉〈内なる書物〉〈幻影としての書物〉だ。その三つはそれぞれ〈共有図書館〉〈内なる図書館〉〈ヴァーチャル図書館〉に対応する。 〈遮蔽幕としての書物〉とはフロイトから借用した概念で、われわれが日常的に話題にする書物のこと。「現実の」書物とはほとんど関連性をもたない。いわば「状況に応じて作りあげられる」代替物である。 〈内なる書物〉とは「神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体」をさす。「われわれが書物に変形を加え、それを〈遮蔽幕としての書物〉にするさいの影響源となるものである」。 〈幻影としての書物〉とは、われわれが話したり書いたりするときに立ち現れる、変わりやすく捉えがたい対象のことである。読者が自らの〈内なる書物〉を出発点として構築するさまざまな〈遮蔽幕としての書物〉どうしの出会いの場に出現する。 書物がそのようにして多様なかたちをもって存在する以上、私たちは読んでいない本について語ることにネガティブな感情を抱くには及ばない。むしろ読んでしまうことで他人の言葉によって制約を受けることになるだろう。ゆえに読んでいない本についてのコメントが一種の創造的営みにもなりうるとさえバイヤールは主張するのである。 本書では、そのような書物とのさまざまな関わり方について、夏目漱石やオスカー・ワイルドなどを参照しながら精神分析的な手法を用いて考察していく。ワイルドによれば、批評とは自分自身について語ることであり、「作品は、批評実践の存在理由そのものである主体からわれわれを遠ざける」。 当然ながら本書の議論の進め方は多分に詭弁的、といって悪ければパラドキシカルであり、生真面目に反論しようとすればいくらでも可能に違いない。しかし一方で、ひとつの教養論ないしは教養共同体を相対化する試みとしては興味深い視座を提起しているのではないかと思う。 ところで私はこのレビューを書くにあたって本書をどの程度まで読んだといえるだろうか。著者のカテゴリーにしたがえば、どうやら〈流〉〈聞〉に該当していそうであることを告白しておく。
by syunpo
| 2015-12-04 20:06
| 文学(翻訳)
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