●大浜啓吉著『「法の支配」とは何か 行政法入門』/岩波書店/2016年2月発行
現代日本人は「法の支配」と「法治国家」とをしばしば区別せずに使っている。しかし著者によれば、法学的には両者はまったく異なる概念である。「法の支配」とは、明治憲法の「法治国家」に代えて日本国憲法が採用した統治原理なのだという。本書は現行憲法下での行政法をとおして「法の支配」の原理を理解しようという試みである。 そもそも「法治国家」(論)とは、ドイツ帝国の立憲君主制を支えた統治原理で、一言でいえば「絶対的な君主の権力の行使を法律によって制限しようとする体制のこと」。明治の政治家たちは憲法を制定するにあたってドイツの立憲君主制を参考にしたため、「法治国家」論も導入されることとなった。 これに対して、戦後、日本国憲法を制定する際に導入された「法の支配」とは、もともとイギリスで生まれた観念で、英米法全体を支える精神的基盤、英米憲法の中核を成す原理となったものである。 日本国憲法が採り入れた「法の支配」は「人権を保障するために法によって政治権力を制約する原理」であり、その内容として「個人の自由と平等の保障」「法の定める内容と手続の適正」「司法裁判所に対する尊敬と優越」が含まれる。 もっとも素人的な感想をいえば、学術上の概念は時代を経るにつれて当初の原義を離れ様々な意味を帯びて、論者によって異なる意味で使われることはよくあることだろう。原義に拘泥した議論が現実的にいかほどの意義があるのか、私にはよくわからない。 それはともかく、私が本書を読んでいちばん驚いたのは、大日本帝国と日本国とでは統治の原理が異なるにも関わらず行政法理論に関しては本質的な変化はなかったという指摘だ。 一九四五年の敗戦を境に大日本帝国は消滅し、新しい国家である「日本国」が誕生しました。にもかかわらず、行政法の世界では、明治憲法下の行政法理論が新しく生まれた「日本国」においてもそのまま生き残り、新しい国の制度、実務、学説の中で支配的な地位を保ち続けています。(p6) たとえば、公権力の行使としてなされる行政処分には、客観的に違法な瑕疵があっても「公定力」(とりあえず有効とする効力)が働き、行政庁が自ら取り消すか、裁判所が取り消すまでは有効な処分として通用力があるとされている。旧憲法下で確立された「公定力の理論」はこうして現在でも通説・判例によって維持されているという。 著者はそのような例をあげながら「法の支配」に基づく新しい行政法の基本原理の確立の必要性を訴えるわけである。 行政権の肥大化は今日の日本でも現実的な問題となっていて、その意味でも本書のテーマは時宜にかなったものといえるだろう。とはいえ本書の記述はいささか教科書風で無味乾燥、新書としてはとっつきにくい読み味なのがやや残念。現在の政治状況から関連する学説へとつなげていくという姿勢をもう少しはっきり打ち出してくれたら、もっと読みやすい本になったと思う。
by syunpo
| 2016-06-01 19:41
| 政治
|
Comments(0)
|
検索
記事ランキング
以前の記事
カテゴリ
全体 思想・哲学 政治 経済 社会全般 社会学 国際関係論 国際法 憲法・司法 犯罪学 教育 文化人類学・民俗学 文化地理学 人糞地理学 地域学・都市論(国内) 地域学・都市論(海外) 先史考古学 歴史 宗教 文化全般 文学(小説・批評) 文学(詩・詩論) 文学(夏目漱石) 文学(翻訳) 言語学・辞書学 書評 デザイン全般 映画 音楽 美術 写真 漫画 絵本 古典芸能 建築 図書館 メディア論 農業・食糧問題 環境問題 実験社会科学 科学全般 科学史 生物学 科学哲学 脳科学 医療 公衆衛生学 心理・精神医学 生命倫理学 グリーフケア 人生相談 ノンフィクション ビジネス スポーツ 将棋 論語 料理・食文化 雑誌 展覧会図録 クロスオーバー 最新のコメント
タグ
立憲主義
クラシック音楽
フェミニズム
永続敗戦
ポピュリズム
日米密約
道徳
印象派
マルチチュード
テロリズム
アナキズム
想像の共同体
古墳
イソノミア
社会的共通資本
蒐集
闘技民主主義
厳罰化
規制緩和
AI
ブログジャンル
|
ファン申請 |
||