●小田嶋隆著『ポエムに万歳!』/新潮社/2013年12月発行
本書は月刊誌《新潮45》に連載した文章を中心に四つの章立てで構成されている。そのなかではやはりタイトルに採ったⅠ章の〈ポエムに万歳!〉が良くも悪しくも著者の批評精神の特質を示しているように思う。雑誌に発表されたあとの反響も大きかったらしい。 ポエム。詩ではない。それでは何なのか。本書の定義はこうである。「ポエムは、書き手が、詩であれ、散文であれ、日記であれ、手紙であれ、とにかく何かを書こうとして、その『何か』になりきれなかったところのものだ」。 ここでもっぱら考察対象となるのは、そのうちでも「本来なら硬質の文体を持ちこたえていてしかるべきテキストが、中学生の卒業文集の如き湿った抒情をうたいあげている」ようなポエムである。そのような出来損ないの文章は、放っておけば淘汰されて人の目に触れなくなると思いきや、そうではないらしい。「ポエムは、大衆受けする」からだ。 現実を直視したくない人たち同士を埋める言葉というのは、ポエムしかないわけです。逆に、それは直視しないという約束で成り立つんです。(p210) かくしてポエム化はいたるところですすんでいる。ニュース番組のポエム化。新聞のポエム化。もちろん詩を書こうとして詩になりきれなかったものとしてのポエム化もある。名だたる女優のブログやツイートなどもポエムの実例として俎上にのせられている。そのようなポエム化を推進している書き手=ポエマーは当然ながら由緒正しいポエットとは異なる存在だ。 ポエムの安っぽい抒情性への違和感やシラケ気分は私も共有するところがおおいにある。が、話はそこで終わらない。私がさらに興味深く感じたのは、上に記したようなポエムの分析じたいがポエム化していくところにある。その過程を惜しげもなく見せているのだ。 小田嶋は書く。「(ニュース原稿のポエム化を)定着させた元凶は、誰でもない、古舘伊知郎その人だと思っている」。「彼の芸風は、元来、実況ポエムだった」というのだ。これは冒頭に紹介したポエムの定義からはかなり逸脱した認識ではなかろうか。古舘の話芸を「何かになりきれなかった」未完成品と決めつけるのはいかにも無理がある。好き嫌いは別にして、テレビ文化における一つの完成品ではあるだろう。だからこそプロレス実況からニュース番組のキャスターまで幅広く重宝されたのだ。つまりここにいたって、ポエムにまつわる小田嶋の定義や分析は拡散してしまい、何でもありになっている。小田嶋の文章じたいが「何か」になりきれていない気配が濃厚なのだ。むろん小田嶋はそのことを自覚している。 ポエマーの相対化を試みんとする小田嶋隆その人もポエマーに限りなく近づいてしまう。そうなのだ。ポエムの世界とは、それを論じる者さえ引きずり込もうとする、底の深い油断ならない世界なのだろう。けれども最後にそれは「優しい社会なのかもしれない」と示唆されてもいる。本書はポエム化した社会を批判的に吟味しながらも、それが必ずしも否定されるべきものではないことを教示してくれる不思議にポエムな本なのである。
by syunpo
| 2016-09-20 19:05
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