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〈慣習の支配〉から〈議論による統治〉へ〜『日本の近代とは何であったか』

●三谷太一郎著『日本の近代とは何であったか ──問題史的考察』/岩波書店/2017年3月発行

〈慣習の支配〉から〈議論による統治〉へ〜『日本の近代とは何であったか』_b0072887_18542080.jpg 日本の近代とはいかなる経験であったのか。その大きな問題を考えるにあたって本書がまず参照するのは、ウォルター・バジョットである。バジョットはヨーロッパの近代を「慣習の支配」から「議論による統治」への移行とみなした。その変革要因として「貿易」と「植民地化」を挙げている。もっとも前近代から近代への移行には断絶があるわけではなく、前近代においても古代ギリシャや中世イタリアなどを見ればわかるように「議論による統治」の萌芽はみられたという立場をとる。

 この「慣習の支配」から「議論による統治」への移行という近代化の観念は、福沢諭吉を初めとする当時の日本の先進的知識人にも非常に大きな影響を与えました。そして実際に「慣習の支配」から「議論による統治」への歴史的な移行に相当する状況の変化が、当時の「立憲主義」に相当する体制原理の危機の進行に伴って、幕末日本においても見られたのです。(p63)

 三谷はそうした認識を提示したうえで、日本の近代化を「政党政治の成立」「資本主義の形成」「植民地帝国の形成」の過程に注目して考察する。さらに日本独自の君主制としての「天皇制」についても一章を設けている。このような検証をとおして現在の日本が置かれている歴史的位置を見定めようというのが本書の趣旨である。

 まず第一に日本における政党政治とはいかなるものであったのか。
 一見集権的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的・多元的な国家の諸機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動していた。したがって、明治憲法に規定されていたような比較的厳格な権力分立制は、立法と行政との両機能を連結する政党内閣を本来排除する志向をもっていた、という。
 逆にいえば、体制を全体として統合する機能をもつ、憲法に書かれていない何らかの非制度的な主体というものが必要とされるだろう。

 そうした主体の役割を担ったものとして、まず登場したのが「藩閥」である。薩長出身者を中心とする藩閥の代表的なリーダーたちが事実上天皇を代行する元老集団を形成した。しかしそれでも衆議院を掌握することはできなかった。衆議院を支配したのは「政党」であった。藩閥と政党はそれぞれの限界を打破するために相互接近が試みられた。そういうなかから複数政党制が出現した、というのが三谷の見方である。

 ただし日本の政党政治は短命に終わった。大正末期から政党政治が本格的に作動し始めたものの、軍部の台頭などによって、その権威は揺るがされていったのである。それにかわる現象が「立憲的独裁」(蝋山政道)であった。

 国民国家の形成を目的として始まった日本の近代は、自立的資本主義の形成をその不可欠の手段とした。日本の近代化を方向づけ、それに沿う資本主義の発展を正当化する有力な論拠とされた学説は、ハーバート・スペンサーの社会学説である。スペンサーは「軍事型社会」から「産業型社会」へという発展段階の図式を示したことで知られる。

 ただ本書の分析でおもしろいのは、権力による近代化=資本主義の形成の心理的促進要因として「恥」の意識を挙げている点だ。内外の笑いものにならないように腐心する、その意識が文明開化を促し、ひいては資本主義を進展させていったというわけである。

 日本が不平等条約を脱し、資本主義の形態が「自立的資本主義」から「国際的資本主義」へと転化した段階で、植民地を有する植民地帝国の構築を目的とする戦略を採用するにいたる。
 その際、より大きなコストを要する軍事力への依存度の高い「公式帝国」の道を歩んだのは何故か。三谷は「先進の植民地帝国に伍する実質的意味の国際社会のメンバーではなかったこと」「日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発した」ことの二点を指摘する。

 その後、日本の植民地政策は最終的には帝国主義に代わる国際イデオロギーとしての「地域主義」に移っていく。それは「太平洋における地方的平和機構」のようなスローガンに象徴されるものである。しかし現実には「日本の対外膨張によってつくり出された既成事実を追認し、正当化するイデオロギー」としての役割を担ったものであることはいうまでもない。

 日本の近代化には機能主義的な思考様式が推進力としてはたらいた。そこでは、宗教もまた基本的な社会機能としてとらえられる。ヨーロッパではキリスト教がその役目を果たしたのだが、日本ではどうか。キリスト教の機能的等価物として考えられたのが「天皇制」である。

 ただし明治憲法に定める天皇の地位と教育勅語における天皇とは齟齬をきたしている。その問題を意識していた井上毅らの苦肉の策を概説したうえで、三谷は次のように述べている。

 しかし井上毅の苦慮の奇策にもかかわらず、憲法と教育勅語との矛盾、すなわち立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との矛盾は消えることはありませんでした。そしてその矛盾と不可分の「政体」と「国体」との相剋は、日本の近代の恒常的な不安定要因でした。(p241)

 相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であった。すなわち「立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇」が国民の上に屹立したのである。

 以上のように日本近代を振り返った三谷はまとめとして次のように述べている。

 日本の近代は一面では極めて高い目的合理性をもっていましたが、他面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性をもっていました。過去の戦争などにおいては、両者が直接に結びつく場合もありました。今日でも政治状況の変化によっては、そのような日本近代の歴史的先例が繰り返されないとは限りません。疑似宗教的な非合理性が儀式と神話を伴って再生し、それに奉仕する高度に技術的な合理性が相伴う可能性は残されています。(p251~252)

 そのうえで三谷はワシントン体制を振り返りながら、その重要な遺産を憲法第九条に遺していることの意味を考えるべきだと締めくっている。いささか硬い読み味ながら、日本の近代化を考えるには有益な一冊といえるだろう。
by syunpo | 2017-06-01 19:00 | 歴史 | Comments(0)
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