●高階秀爾著『近代絵画史(上)増補版 ロマン主義、印象派、ゴッホ』『近代絵画史(下)増補版 世紀末絵画、ピカソ、シュルレアリスム』/中央公論新社/2017年9月発行
高階秀爾といえば西洋美術の通史を学ぼうと思った人なら必ず見聞する名前だろう。上下巻から成る本書は、ロマン派から第二次世界大戦までにいたる「近代絵画」の歴史を主要な画家や芸術運動の事跡をたどりながら記述したものである。初版は一九七五年に刊行されたが、新たな研究で明らかになった史実や作品の基本的情報について必要な補訂を施したほか、掲載図版をすべてカラーにしたのが増補の主な内容。 上巻ではロマン派からナビ派まで、下巻では世紀末絵画から抽象絵画へと至る道筋をふりかえる。通常、近代絵画を語る場合には印象派から始めることが多い。しかし本書のスタンスは違う。 ルドルフ・ツァイトラーは、一九世紀とは「様式」という概念が通用しなくなった時代だと規定した。芸術家たちは形式上の統一性よりも、自己の個性と内面性と主観性を追求するようになったからである。ならば近代絵画の出発点をロマン派の時代にまでさかのぼる必要があると高階秀爾はいう。「個性の追求といい、内面性、主観性の表現というものは、何よりもまずロマン派の画家たちが求めたものだからである」。ヴィクトール・ユゴーがロマン主義を「遅れてきたフランス革命」だと定義したこともこの文脈において極めて示唆的である。 ゆえに本書では「近代絵画史」をロマン派から語り起こすのである。ゴヤはその意味で近代絵画の先駆者であった。宮廷画家から告発者的な作品を経て「黒い絵」に至る道程は、近代の夜明けが直面した矛盾や葛藤を体現していたからである。 その後につづくターナー、コンスタブルの風景画と近代性との関連を考察するくだりも興味深いし、コンスタブルの風景画は印象派に強い影響を与えたという指摘も重要だろう。 もっともデカルト以来の普遍的な理性に対する信仰は、新古典主義に顕著にみられるものであった。フランスにおける新古典主義の総帥ダヴィッドは「芸術家は哲学者であらねばならない」と考えていたらしい。 それに対してロマン派の「近代性」はいささかスタンスが異なる。 ……ロマン派は、理性に対しては感受性を、デッサンに対しては色彩を、安定した静けさに対してはダイナミックな激しさを、普遍的な美に対しては民族や芸術家の個性を、優位に置いた。つまり、ひと言で言えば、「古代」に対して「近代」を主張したのである。(p44) ロマン派、新古典主義と近代思想との連関は、高階の見立てによればいささか錯綜しているというか一筋縄ではいかないように感じられる。それもまた歴史のおもしろいところではあるだろうが。 写実主義の観点からはもっぱらコローが重点的に論じられている。「富も名誉も求めず、ただひたすら自然の歌を歌い続けたコローは、その長い生涯のあいだに、フランス絵画を新古典派から印象派の入口まで、いつの間にか持ってきてしまった」という。 そして、クールベ、マネ、ドガの登場となれば、そのモティーフからいってもより近代絵画らしくなってくる。もちろん高階はマネについて近代的な風俗を超えたところに魅力のありかを見出している。「われわれが今日マネの作品に惹かれるのは、それが第二帝政や第三共和制時代の風俗を伝えてくれるからではなくて、色彩と形態による詩の世界が歌い上げられているからである」と。 そうして印象派の時代が到来する。いうまでもなくこれは美術史における画期的な出来事であった。印象派に関しては新印象派を含めてかなりの紙幅を費やしているのは当然だろう。筆触分割などの技術的な問題を論じたうえで「印象派によって色彩は「解放」され「自律性」を与えられたのである」と論じるくだりが文字どおり印象に残った。 さらに印象派はその運動の後期の過程において、みずからを否定するような動向を示した点で美術史のダイナミズムを感じさせる。 ……一八八六年の第八回印象派グループ展は、形式的には印象派の最後の展覧会であったが、実質的には、「反印象派」の最初のマニフェストであったと言ってよい。(p162) 印象派の美学の影響のもとに育ったゴーギャン、ゴッホ、ルドンらは、やがて反印象派ともいうべき方向へと舵を切る。眼に見える世界をそのまま再現するだけでなく、眼に見えない世界、内面の世界にまで探求の眼を向ける。象徴主義と括られる傾向である。 その後に登場したナビ派も、画面を「自然に向かって開かれた窓」たらしめようとした印象主義に反対して、自然とは別の画面それ自体の秩序を求めたゴーギャンの考えをそのまま受け継ぐものであった。 モーリス・ドニの絵画の定義はそれを端的に表現している。すなわち「絵画作品とは、裸婦とか、戦場の馬とか、その他何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である」と考えたのである。 魂に形を与えることを志向したドラクロワらのロマン主義から、目に見えるものだけを描く印象派へ、そして再び内面の世界の探求を旨とする象徴主義へ。 ……こうした流れをみていると、近代における西洋絵画の歴史は行きつ戻りつしながら今日へと至ったことがよくわかる。 下巻では世紀末の絵画の概説から始まる。 西洋絵画の世紀末は「ヨーロッパ全体が二十世紀になだれこもうとする豊かな混乱と胎動の時代」であった。そのなかでは、セザンヌ礼賛で知られるモーリス・ドニやルドンらの名前を挙げることができる。 ドイツ表現主義は、二〇世紀初頭に顕著になった芸術動向を指すが、高階はもともとドイツでは表現主義的傾向が強く存在したことを指摘することを忘れない。ただしそうした傾向を「民族的性格」と規定する安直な記述には疑問が残るけれども。 同じ頃、フランスでも表現主義的な傾向を示していた。フォーヴィスムはその一つのあらわれである。マティスをはじめヴラマンク、ドラン、ルオーらが活躍した時代である。もっともフォーヴィスムはあくまでも純粋な造形芸術運動であったという点で、ドイツ表現主義とは異なるものであった。 ついでピカソ、ブラック、レジェ、グリスらによるキュビスムの時代がおとずれる。 ……キュビスムがなしとげた変革は、単に表現様式上のものというよりも、もっと深く人間の世界認識にかかわることであった。統一的な視覚像の崩壊は、とりもなおさず画家の視点の持つ特権的な位置の否定を意味するものであり、人間中心の世界から対象中心の世界への移行を予告するものであった。(p96) アンリ・ルソーは一般に素朴派の代表格と目される。先行者の絵画との格闘ぶりをふりかえるならば、なるほど一見したかぎりでは素朴な印象を受ける。しかし今日的な視点からみると、写実主義の破産の後に台頭し、画家自身の「心の状態」を反映した画風はキュビスムの映像世界とも結びつくなど、素朴なる概念だけでは捉えきれない美術史的にも極めて意義深い存在であることは疑いえない。 ルソーの心酔者であったアポリネールが、シャガールのなかにも同様の詩的世界を見出したことは注目に値する。当時のパリにはさらにモディリアーニ、パスキン、キスリングら錚々たる顔ぶれが集まってくる。こうしてエコール・ド・パリの時代が花開く。多くの才能がパリに集まったこの時代は、芸術の都の名にふさわしい様相を呈していたというべきかもしれない。 機械文明への賛美を始めたのは未来派である。 機械文明の勝利を造形表現の上においても確認しようとするこの未来派の運動は、ある意味で、産業革命以後十九世紀を通じて積み重ねられてきた科学技術の発展の当然の帰結であったとも言える。(p142) しかしながら、まもなくそれに反発する人々もあらわれる。ダダイズムである。詩人たちを中心にして始まったその運動は、ピカビアとデュシャンが登場するに及んで美術史においても一つの運動として明確な形をとるようになった。それは「大胆に既成の価値を否定しながら、同時に現代文明に向かって、痛烈な批判を投げかけるものであった」。 ダダの運動に参加した人たちのなかから、シュルレアリスムの担い手があらわれる。偶然性の利用やオートマティスムなど、後にシュルレアリストたちが好んで用いる手法は、実はいずれもダダの仲間たちによって試みられていたものであったという。 ドイツにうまれたバウハウスも近代美術史において軽視できないものである。それを主導したグロピウスの基本的な意図は「社会からあまりにも遊離してしまった芸術活動をふたたび社会のなかに正しく位置づけようとする」ものであった。 そしてついに人類の絵画は抽象絵画の時代へと突入する。「純粋な色と線との純粋な関係」こそが「純粋な美」と考えたモンドリアンの考え方に、現代の抽象絵画の理念が詰まっているといえるのかもしれない。 想像力をキーワードにして、ロマン派から象徴派へ、そしてシュルレアリスムへと進む美術史の流れを簡潔に語る本書の記述は一つの確かな美術史といっていいのだろう。それにしても印象派もフォーヴィスムもキュビスムも、それが始まったときにはいずれも激しい非難や嘲笑を浴びたという史実の繰り返しはまことに興味深い。 芸術上のあらゆる創作は文脈依存性を有する、と言ったのは古典作品のパロディで知られる森村泰昌である。そういう意味では作品を鑑賞することと美術史の学習とは切り離せない。難解といわれる現代の抽象画でも、美術史を学ぶことでより親近感をもって鑑賞できるようになるのではないかと思う。美術史を学ぶこともまた知的な悦楽である。
by syunpo
| 2017-12-15 19:10
| 美術
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