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理性を正しく導き、学問において真理を探究するための〜『方法序説』

○デカルト著『方法序説』(谷川多佳子訳)/岩波書店/1997年7月発行

理性を正しく導き、学問において真理を探究するための〜『方法序説』_b0072887_18581585.jpg 「われ思う、ゆえに、われ在り」。
 私がデカルトのこの言葉を初めて意識したのは、中学生の時、友人から借りた哲学の入門書においてであった。それは、マルクスの弁証法的唯物論を解説するもので『ものの見方考え方』とかいうタイトルの本だったと思う。そこでは、当然ながらデカルトの考え方は、悪しき観念論として厳しく批判されていた。

 その後、私は、デカルトのこの言葉はそのような単純な批判では斥けることのできない「含蓄」を有しているのではないかと考えるようになった。何より「われ在り、ゆえに、われ思う」よりも「われ思う、ゆえに、われ在り」の方が実感に近い気がしてきたのである。
 だが、いつしか私はデカルトのことなんか、考えることも意識することもなくなった。

 二〇〇二年に太田出版から刊行された『必読書150』には、デカルトの『方法序説』が挙げられていて、柄谷行人が推薦の筆をとっている。

 「われ思う、ゆえに、われ在り」(コギト・エルゴ・スム)というデカルトの言葉は誰でも知っている。しかし、実は、そんなことはわかりきっている、何でわざわざそんなことを「証明」しなければならないのだ、と思う人がほとんどである。しかし、自分は「在る」ような気がしないということで苦しんでいる分裂病者がいるのである。現に、デカルトは、すべてを疑うことを決めたときに気が狂うだろうことを予期しており、そして、実際に狂ったらしいのだ。もちろん、彼は狂ってもいいように長年かかって用意していた。デカルトの懐疑は命がけである。彼と比べると、多くの人は疑うどころか、存在しているかどうかさえ疑わしい。(p64)

 刊行直後に読んだはずなのだが、このパンチの効いた一文のことはすっかり忘れていた。最近、新刊書に良い収穫が得られず、何気なく『必読書150』を手にとってパラパラしていているうちに、『方法序説』のページにハタと目がとまったのである。デカルトの懐疑論が、そのような壮絶な思考の果てに到達したものだったとは……。

 疑うこと、すなわち、考えること。
 柄谷の言を待つまでもなく、近頃、新聞やネット上でニュースを読んでいて思うことには、考えることそのものを放棄しているとおぼしき人の何と多いことか。他人事ではない。「命がけ」でなされた思考を読まずにやり過ごすのは惜しいのではないか。思えば、私はデカルトのあの言葉を他人の引用で知るのみで、愚かにも原典の翻訳に触れたことは今まで一度もなかったのだ。最近になって、私がデカルトを読み始めたのはそんなワケである。
by syunpo | 2006-07-23 19:02 | 思想・哲学 | Comments(0)
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