自己と他者との〈あいだ〉〜『生命と現実』

●木村敏、檜垣立哉著『生命と現実 木村敏との対話』/河出書房新社/2006年10月発行

b0072887_1952851.jpg 精神病理学者でありつつも哲学的な著作によって幅広い影響力をもつ木村敏と哲学者の檜垣立哉による対話の記録である。「哲学関係の方々との意見交換の場に出ること」は「めったにない」という木村だけに、愛読者にとってはその思想的バックボーンを知るには絶好の書といえるかもしれない。

 精神病理を独自の視点で記述してきた木村の基本的な理念は、以下の発言に凝縮される。

 ……あくまで臨床場面で自分が経験し、感じ取っている現実を哲学していこうという基本的な姿勢をもっています。でなければ、私のような医者が哲学的な概念を振り回すことに、あるいはそんな哲学的な概念に振り回されることに、なんの意味もない。(p101〜102)

 したがって、木村の哲学的な言説は例外なくみずからの臨床体験に促されるような形で展開されてきたものである。アンテ・フェストゥム(祭りの前)としての統合失調症、ポスト・フェストゥム(祭りの後)としての鬱病、イントラ・フェストゥム(祭りの中)としてのてんかん……という一世を風靡した時間論的認識も、臨床医としての観察に基づいたものだ。

 木村の臨床哲学の理論は、いくつかのキーワードによって構成されているが、なかでも重要な概念は〈あいだ〉である、と檜垣はみる。
 まず、それは自己と他者との〈あいだ〉として措定される。だが、この〈あいだ〉は、すでに存在する自己と他者との〈あいだ〉ではなく、それがなければ自己も他者もない、という〈あいだ〉である。すなわち、自己と他者との〈あいだ〉とは、そこから自己も他者も生まれてくる圏域として理解されなければならない。
 その〈あいだ〉という関係性の場面に問題が生じた時に、精神的な病が生じる。

 そのような木村の哲学的な思索の基盤となっているのは、西田幾多郎、ビンスヴァンガー、ハイデガーなどだが、檜垣は丹念に彼らの考えを紹介しつつ、木村との思想的連関を探っていこうとする。

 「心の医学」から「脳の医学」へと大転回を果たした今日の精神医学界にあって、「サイエンスを拒否する精神科医」である木村のような存在は、希少であるのかもしれない。だが、「精神病を、心の病か脳の病かというような二律背反に閉じこめること自体が、この上なく本質を逸脱した議論ではないのか」という問題意識は、もっと広く共有されても良いのではないかと思われる。

 哲学者として木村にアプローチを試みる檜垣はなかなかの勉強家だ。ただし、彼の長広舌は概して面白くない。木村の言説に対して淀みなく対応しているのだが、ほぼ全編にわたって生硬な剥き出しの哲学用語で押し通しているために、一般の読者には極めて難解なものになってしまった。
 また、哲学の側から臨床に関心をもって独自の思索を重ねる鷲田清一に関する木村の見解を聴いてみたいと思ったのだが、檜垣がみずからその話題を持ち出しながら、「脱線」とみなして、哲学プロパーの問題にかえってしまうのは、何とも歯痒い。臨床と哲学の接点こそが、ここでの「本線」のはずではないか。本書の企画は、もう少し読者を意識できる舞台慣れのした聞き手で読みたかった。
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by syunpo | 2006-12-03 20:03 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)
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