●東京新聞特別取材班著『検証「国策逮捕」 経済検察はなぜ、いかに堀江・村上を葬ったのか』/光文社/2006年9月発行
本書は、ライブドア元社長の堀江貴文と村上ファンドの村上世彰の逮捕起訴から公判に至るまでの舞台裏をドキュメントしたものである。 タイトルとなっている「国策逮捕」(国策捜査)に関して「政府の意図や世論・マスコミの動向に沿って行う捜査」と大雑把に概念規定したうえで、「捜査が政権の意を受けて行われてはならないことは論を待たない」と述べ、はたして堀江と村上の逮捕は「国策」だったのか、を検証するのが本書の狙いだったようだ。が、実質的には、立件されたライブドアや村上世彰の行ないに関する検証が中心になっている。 そもそも検察庁という組織じたいが法務大臣の所轄下にある一行政機関である。 すべての犯罪の捜査を義務づけられている警察とは違い、検察は必要に応じて捜査することになっている。その必要性は検察の裁量に委ねられており、その意味では検察捜査とは良くも悪しくも「国策的」な色合いをもつ、という朝日新聞の村山治の見解(『ビデオニュース・ドットコム』での発言)が、私には最も合点のいくものだ。だとすれば重要なのは国策かどうかを問うことではなく、国策の内実だろう。 したがって、本書のメインテーマに関して私はあまり社会的意義を感じない。ただ、主要全国紙が精彩を欠いているなかで、一部から高い評価を受けている東京新聞が一時代を画したともいわれる事件についてどのような綿密な取材を行なったのか、という関心から本書を手にとった。 一読しての感想は、やはり何とも煮え切らない内容だということだ。堀江や村上の生い立ちを中途半端にフォローしたり、取材班の楽屋話を絡めたりで、パッチワーク的な印象がぬぐえなかった。 「国策捜査であったのか」という最初の問題提起を引き取る形で、終章において、一連の捜査は「政治的な意図や世論の風向きには関係なかった」としているが、そもそもその命題に対応するような政権サイドの取材を行なった形跡がないのは何とも不思議である。 ライブドアや村上ファンドのパフォーマンスは、本書でも示唆されているように、小泉構造改革が推進した規制緩和の間隙をぬって、あるいは規制緩和の追い風を受けて行なわれたもの、という側面が強く感じられる。 一方で、法の抜け穴や制度不備に対して、金融庁などの行政当局がすぐに対応することはしてこなかった。その意味では、野党が主張したように、ライブドアや村上ファンドの不正行為は「政治」の副産物といえなくもない。つまり、検察は政治の不首尾の尻拭いをした、ともいえるわけで、本書の記述はそうした構図を期せずして浮き彫りにした形になっている。私は、むしろその点に面白さを感じた。 日本社会は、今、「事前調整・事前規制」から「事後監視・事後制裁」の時代へと移行しつつある。堀江貴文と村上世彰の摘発は、その時代の変化を照らす象徴的な事件だったのかもしれない。
by syunpo
| 2007-03-21 19:41
| 政治
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