●四方田犬彦著『先生とわたし』/新潮社/2007年6月発行
本書の主役である由良君美とは、一九七〇年代に「独文の種村季弘、仏文の澁澤龍彦に匹敵する、英文学の雄」として「幻想文学愛好家から御三家扱いされていた」研究者である。これは、東京大学で彼の教えを受けた四方田犬彦が博学の恩師の業績や人間像、さらには自分との関係について綴った異色の評論だ。 著者と由良との関係については、大学での邂逅から、彼に付いて勉学に勤しんだ日々、そして亀裂が深まり疎遠になるまでの経緯が率直に記述されている。さらには由良が大学での政治に疲弊し気力を減退させていく時期——著者自身の目の届かなかった時期に関しては関係者に取材してノンフィクション作家然とした筆致で話を進めていく。その合間に、由良君美の生い立ちや家系なども関連文献を丹念に読みこんだ成果を示して資料的価値をも有する内容になっている。 由良の研究対象は専門の英文学の範疇にとどまらず、現代思想をはじめ、言語哲学、日本美術、映画から漫画に至るまで実に幅広い。その飽きることのない批評的探求心は、まさしく弟子の四方田犬彦自身が受け継いだものであろう。 それにしても、著者との関係が疎遠になって以降に由良が精神的に不安定な状態に陥り、米国から深夜に電話をかけてきて無理な依頼をするくだりや酒席での醜態など、後半部分の赤裸々な論述にはいささか決まりの悪い印象を抱かぬでもない。由良が四方田自身に奇怪な言動をするようになった一因を関係者の証言から推察する部分も、ややもすると嫌味な感想を与えかねないものだ。 が、さながら悪魔祓いのように回想を書き綴ってきた後に、〈間奏曲〉と題してスタイナーと山折哲雄のテクストをベースに展開される師弟関係の批評的考察は読み応え充分だし、末尾に記された本書の結論的述懐に至って、私は四方田が何故かくも個人的な逸話をちりばめた著作を江湖に問うたのか、最終的に納得できた。本書において、四方田は極めて個人的な体験から書き起こしながら、そもそも「教える」とはどういうことなのか、師と弟子の関係はいかにあるべきなのか、を考えるケーススタディを提示しようとしたのだ。 四方田は、由良君美が体現したような古典的教養は現在では凋落の一途を辿っているが、彼の研究室に成立していたような親密で真剣な解釈共同体の再構築に腐心する必要を宣言して、最後にこう締めくくっている。 人間に知的世界への欲求が恒常的に存在しているかぎり、師と弟子によって支えられる共同体は、けっして地上から消滅することはないだろう。(p233)
by syunpo
| 2008-05-16 19:26
| 文学(小説・批評)
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