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「今=ここ」に生きる〜『日本文化における時間と空間』

●加藤周一著『日本文化における時間と空間』/岩波書店/2007年3月発行

「今=ここ」に生きる〜『日本文化における時間と空間』_b0072887_19192810.jpg 「渾身の書き下ろし」という謳い文句どおり、これはなかなかの力作であると思う。著者の博覧強記は誰もが知るところ、古今東西の宗教、文芸や美術への幅広い目配りと深い思考に支えられた出色の日本文化論といえる。

 加藤は日本文化の特色を時間と空間の二つの軸から考察し、他の文化と比較して「今=ここ」に生きる要素の大変強いことを主張する。

 古来、日本人にとって「現在」の出来事の意味は、過去の歴史や未来の目標との関係において定義されるのではなく、それ自身として決定される。日本語の文法をみても、過去・現在・未来を鋭く区別しない傾向にあり、それはたとえば動詞の現在形と過去形を自由に違和感なく混用することが可能であることからもうかがえる。
 また同時に、出来事はもっぱら当事者の生活空間(家族、ムラ共同体など)の内側で生起し、そのため人々の関心は集団の内部に集中し、外部に及ぶことが少ない。
 すなわち、時間においては「今」に、空間においては「ここ」に集約される世界観が日本文化の基層を成している、というのが著者の認識である。

 そのような世界観を反映する表現として、文学では連歌やそこから派生した俳句にみることができるし、身体表現としては一瞬の静止とその視覚的効果が繰り返される能や歌舞伎などにみとめることができる。美術においては、一見出来事の連鎖を描いているようにみえる絵巻物も等価的に場面が並んでいるという点で「現在を過去および未来から切離して独立に完成しようとする強い傾向」を表象するものである。

 また、自己の外部にある規範や現実を観察し、再現し、理解することよりも、自己の内部にある感情や意思の表現に向かうような「主観主義」の原理を、日本の書画や建築、さらには江戸後期の倫理観に見出すのである。

 そうした「今=ここ」に集約されるような志向は、部分と全体との関係に還元することができる。すなわち部分が全体に先行するのだ。その心理的傾向の、時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。
 「今=ここ」に重きをおくスタイルは、現在の日本人の生活様式や政治行動をも規定している、と加藤はいう。その主張は論旨明快、かつ多くの日本人の実感にも適うものであるだろう。

 ただし、加藤のそうした議論の運びに対しては、いささか肯んじえない点もある。
 「今=ここ」に生きる日本人像を描くにあたって、古くからのムラ共同体のあり方を一つの思考モデルとしているのだが、自説の展開に適用しやすい共同体の閉鎖性ばかりが強調されるのだ。また、江戸時代の「鎖国」政策について従来の固定的な認識に留まっているのにも少し疑問を感じた。
 現在の日本史学では、江戸時代を「鎖国」政策の時代と捉えるような単純な議論はカゲをひそめているし(そもそも「鎖国」は幕府の公式用語ではない)、当時の農漁村における活発な交易・商業活動に注目する研究も数多く提起されているのに、加藤の考察はそうした歴史学の新たな成果には目を瞑って、ややもすると日本文化論・日本人論のステレオタイプを繰り返す陥穽にはまっている印象がないとはいえない。
 日本列島のダイナミックな「交通」にスポットを当て、日本史の再構築を訴え続けた故網野善彦が本書を読んだとしたら、おそらく強い違和感を表明するのではあるまいか。
by syunpo | 2008-09-11 19:31 | 文化全般 | Comments(0)
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