●水村美苗著『本格小説』(上下巻)/新潮社/2002年9月発行
この小説の面白さについてはいくつかの書評や私信で見聞していたのだが、「悲恋」の物語という謳い文句と二分冊という長大さに今一つ食指が動かなかった。たまたま図書館に上下巻並んでいるのを見て遅ればせながら読んでみると、何故もっと早く手にとらなかったのかと思うまもなく作品の世界に引き込まれていった。なるほどこれは日本の二一世紀初頭を飾る傑作の一つではないかと思う。「本格小説」とはいうまでもなく日本における「私小説」に相対する概念である。大辞林には「社会的現実を客観的に描くという近代小説の本来の構成を備えた小説」とある。もちろん今では、そのような概念は規範としての存在価値を失ってしまっているのだが、水村はあえてそれをタイトルに付して長大なる小説を物した。先に、文字どおり『私小説』と名のつく作品を発表した水村にとっては、これで日本の近代小説の二つの系統を「作品化」したことになる。 近代小説の主要なテーマの一つは恋愛である。 水村は、かつて日本に存在した「階級」を意識しながら、異なった社会に生きる男女の恋愛を描いた。 重光家と三枝家、宇田川家。裕福な家系に生を受けた人々が軽井沢と東京を舞台に織りなす人間ドラマのなかで、上流階級に属するよう子と下層階級の東太郎との恋愛が物語の核をなす。それは必然的に「悲恋」としての結末を迎えるしかないものであった……。 彼らの物語は、三家と関係をもった女中の土屋冨美子の視点から描かれる。冨美子はいうまでもなく上流階級に属する人間ではないが、かといって太郎ほどの辛酸を舐める下層階級の人間でもない。戦前戦中の混乱をくぐりぬけ、戦後、伯父の伝手で上京し、進駐軍オフィサーのメイドから始まって宇田川家の女中に収まり、高度経済成長やバブル経済の恩恵を受けながら「キャリア・ウォマン」のような生活を経て、予期しない結末へと至る半生は、単に物語の狂言回しという以上の存在感を与えられており、さながら戦後日本の歩みを体現したかのような女性として描出されるのである。 ここで興味深いのは、冨美子が生きずりの青年・加藤祐介に話を聞かせる、加藤祐介が米国に滞在していた水村美苗にその話を伝える……というように伝言ゲームのようにして二人の悲恋が物語られる、という形式をとっている点にある。本作は、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を翻案したものである。そのことは冒頭、作者としての水村美苗が登場する〈本格小説の始まる前の長い話〉と題された序章でそれとなく種明かしされる。それはかつて日本の近代文学が西洋の小説を模倣したり翻訳したりすることで、みずからのスタイルを形成していった過程を今一度なぞろうとするものである。「本格小説」という古典的な概念を持ち出してきたことも、その身振りと重なり合う。 最初に作者と重ねられるべき存在である水村美苗が登場していることから、この作品はむしろ「私小説」的な様相をもって始められるが、それはあくまで「本格小説の始まる前の長い話」にすぎない。しかるに、その枠組を設定することによって、本編の作品世界は「私小説」的地平から離陸する。さらには最終盤に、冨美子の話を聞き終えた祐介がよう子の叔母からも話を聞く場面が登場し、冨美子の回顧談——この作品世界そのもの——までが相対化されてしまうのだ。すなわち、水村はこの物語を書くにあたって二重三重の仕掛けをほどこすことで、小説の方法自体をも問題化していることが明らかである。 文学がかつて担った役割を果たしえず、また期待もされない現代、文学の衰退や終焉が口にされる現代においていかなる文学が可能なのか。水村は現代に生きる日本の文学者としてそうした問題意識と無縁でいられるはずもなかったのだ。 日本にもかつてヨーロッパほどではないにせよ階級社会が存在した。ここに描かれているのは、そうした階級格差が歴然と存在していた時代の最後期における悲劇ともいえる。 やがて戦後民主主義の時代のなかで、階級は次第に溶解していき、いつのまにか「一億総中流」と呼ばれる大衆社会が到来した。話が進むにつれて水村の筆致は、消えゆく上流階級への挽歌的な色彩が濃くなっていく。 だが、時代は今また「格差社会」へと向かいつつある。かつてのような階級社会が復活することはありえまいが、四方を壁に囲まれたニュータウンがいくつか造成されているというような話を聞くと、本書の主題が新たな局面でまた意味を増すことにもなるかもしれないと思う。 水村美苗の『本格小説』は、西洋小説の翻案というスタイルをとりながら今日的な問題と格闘した、その一つの成果である。 ※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
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