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●萱野稔人、神里達博著『没落する文明』/集英社/2012年2月発行
東日本大震災とその直後に発生した福島第一原子力発電所の事故。そのインパクトを受け止める知的方法の一つとして本書が提起する主題は「社会や文明のなりたちを自然環境やエネルギーの問題から考えること」である。昨今の知的傾向にあらがって──と萱野が大上段に構えた割には全体をとおしてさして斬新な論点が打ち出されているとも思えず、いささか拍子抜けしたというのが率直な読後感。結論的に主張されている「経済成長から脱成長社会へのパラダイムシフトを」という提起も大枠においてはすでに多くの論者が述べてきたことではないか。 今となっては異論も少なからず出されているウェーバー的な国家=暴力論や日本社会を無責任の体系とみなした丸山眞男など先人の知見を要所で参照している点ではむしろ本書の社会認識は古典的とさえいえるだろう。
●佐藤俊樹著『桜が創った「日本」 ソメイヨシノ起源への旅』/岩波書店/2005年2月発行
今日、日本列島の春を彩る桜の七〜八割はソメイヨシノといわれる。あたり一面を同じ色に染め上げ、一斉に散っていく──という桜のイメージは、なべてこのソメイヨシノに拠るものである。もっともこの桜は江戸時代末期につくられた品種であり、万葉集や古今集の時代には存在しなかった。ソメイヨシノの歴史は旧いものではなく、桜を主役とする日本の春景色は近代の幕開けとともに塗り変えられたといえる。また日本を桜の花で象徴させるような発想もそれほど伝統的なものとはいえない。桜には様々な種類がある。自生種ではヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガン、マメザクラ、カンヒザクラ……。さらに里桜と呼ばれる園芸品種が三百以上。この中からソメイヨシノが全国を席捲するに至った理由はいくつかある。他の桜に比べ接木の成功率が高く繁殖させやすい。値段も安く大量生産に向いている。公共空間を手っとり早く美しく飾るのにソメイヨシノは「絶好のアイテム」だったのだ。 ソメイヨシノ以前、多品種の桜が存在したところでは、一つの樹が散っても別の樹が咲き継いでいった。花盛りもだんだん移り変わるから桜林全体で見れば長い期間にわたって桜を楽しむことができた。ゆえに桜の「ぱっと咲いてぱっと散る」点に日本人の美学や趣味を重ね合わせるような言説は明治以降にあらわれたものである。 とはいえソメイヨシノの出現以前にソメイヨシノが実現したような桜の景色を何人もが歌っていたことも事実。それは実際に現地に赴いて桜を見ることなしに歌を詠むことが日常的に行なわれていたことによる。その意味ではソメイヨシノの出現は古来の文学的趣向に適ったものでもあった。 ソメイヨシノの普及とともに、ヤマザクラの旧さに「桜らしさ=日本らしさ」の最も純粋な姿を見出す言説もあらわれるようになった。ソメイヨシノの人為的なあり方を過剰に嫌うあまり、ヤマザクラの「自然」なあり方を評価するような見方である。 しかしながら、ヤマザクラは寒さや潮風には弱い。吉野や京都のような西日本の内陸部に適した桜には違いないが、東日本の海沿いに発展を遂げたエリアで(ソメイヨシノを含む)オオシマ系の桜が愛好されたのは同じくらい自然なことであると著者はいう。 気候のちがいを無視して、あらゆる土地にソメイヨシノを植えようとするのと、気候のちがいを無視して「日本の桜は本来ヤマザクラ」と断言するのは、どちらも同じくらい自然環境を見ていない。(p188) 本書のおもしろいところは、桜をめぐる言説の歴史的な流れを追いながら「自然/人工」という認識の図式そのものを相対化している点だ。「自然」とされた方からみれば「人工」もまた環境の一部である。その意味では「ソメイヨシノが人工交配か自然交配かという起源論争の大テーマも、あまり大きな意味はない」。植物からすれば、花粉を人が運ぼうが虫が運ぼうが本質的な違いはないからだ。 自然とは何か。伝統とは何か。桜の歴史的変遷をみるという切り口から、私たちは思いのほか広大な思索の場所へと連れ出されていることに気づかされる。おもしろい本である。
●宮崎学著『「自己啓発病」社会』/祥伝社/2012年2月発行
自己啓発ブームだという。個人のスキルアップを奨励し、ポジティブシンキングを評価する。自身を啓発していくことで人は社会的成功をおさめ、勝ち組に参入できるというわけだ。これに類する社会的風潮は八〇年代にもみられたが、それはもっぱら「自己開発」と呼ばれた。宮崎はそれぞれの社会的背景を探りながら両者の間には異なった性質を見出している。一九八〇年代の「自己開発」ブームは、社会の自信にあふれた全能感にあおられたものだったが、二〇〇〇年代の「自己啓発」ブームは、社会の不安な無力感から逃れるためにすがったものだったのではないか、という見立てだ。 前者はバブル時代のイデオロギーであり、後者は小泉政権が推進した「自己責任」を旨とする新自由主義的政策に明らかに対応するものである。これからいっそう厳しくなる競争社会を勝ち抜くためには、個々人が資格を取得するなり手に職をつけるなどして自助努力によって生きていかねばならないというのが「自己啓発」の説くところだ。 ところで「自己啓発」を促すにあたってはスマイルズの『自助論』を持ち出す論者が少なくない。『自助論』では文字どおり「自助」が説かれている、これこそまさに競争社会を勝ち抜いていくための基本精神だというのが一般的な認識である。 しかし、宮崎はそうした『自助論』の読解に疑義を差し挟む。スマイルズの主張が歪められて受容されているというのだ。そもそも今日参照されることの多い『自助論』は抄訳である。 なるほどスマイルズは自助を説いたが、労働運動や組合活動をも支持した。彼にとって自助とは相互扶助と不即不離のものであった。だが今日の新訳ではそうした部分が骨抜きにされている。政治家や経営者が「自己責任」を強調したいときに都合のよい著作として自助論が召喚されているわけである。 宮崎は東日本大震災後の日本社会に自助が相互扶助と両立しうる実践例があるという。そこでスマイルズの読み直しが平行して進められる。宮崎によれば「東日本大震災における『自助力』とは、『ご近所力』、地域共同体ないしコミュニティの相互扶助力にほかならない」(p144)のだが、それはスマイルズの考えとも共振しあうものである。 近代的自助論の典型であるスマイルズ『自助論』には、近代的自助を超え出るものが含まれているのである。(p209) ただし最終的には宮崎はスマイルズの自助論にも限界を見ている。スマイルズの自助精神とは「キリスト教プロテスタンティズムとイングランド自由主義を柱としたものであった」。その意味で時代の制約を受けていることもまた否定しがたい。 宮崎は「自助が他助になり、他助が自助になる関係が成り立つ局面」を構想する。「相互的自助」とでもいうべきものである。それはスマイルズの自助論をも超克するものであるだろう。 以上のような「自己啓発」ブームに対する宮崎の批判的な態度は、フーコーやルジャンドル、佐々木中らの〈生−権力〉や〈マネジメント原理主義〉に対する対抗的言説、より大きな文脈での思想史的言説とも通じ合うものだと思われる。 様々なバリエーションが存在する「自己啓発」を無駄な抵抗で病理的な現象だと見なす本書の断定口調には反発もありうるだろうが、本来なら社会学者が取り組んでもよさそうなテーマに果敢に斬り込んでいく筆致には宮崎の面目躍如たるものがある。
●沼野充義編著『世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義』/光文社/2012年1月発行
ロシア・ポーランド文学の研究者・翻訳者である沼野充義が五人のゲストを相手に対論形式で行なった講義の記録である。ゲストはリービ英雄、平野啓一郎、ロバート・キャンベル、飯野友幸、亀山郁夫。多和田葉子の例を引きつつ、外国語を書くという動機は政治的・経済的な理由だけによるものではなく論じ尽くせないような個人的なきっかけもありうると述べ、「越境文学」の可能性を語るリービ英雄。万葉集以来の膨大な美しい言葉が眠る日本語を拡張することをデビュー作で企図したという平野啓一郎。『土佐日記』などを例に世界文学たりうる自意識がないままに外側に向かって訴求力をもつ日本文学の魅力を語るロバート・キャンベル。ホイットマンの一人称を「おれ」「ぼく」「わたし」と訳しわけた訳業にふれつつ、詩と翻訳の問題について考察する飯野友幸。日本におけるドストエフスキー受容、日本文学への影響などについて具体的に言及する亀山郁夫。 ……といった具合にそれぞれの専門や問題意識に即した興味深い議論が展開されている。議論にややまとまりや深味を欠くきらいはあるけれど、あらためて読書意欲を喚起させるような内容であることは確かである。
●大澤真幸著『〈世界史〉の哲学 中世篇』/講談社/2011年9月発行
近代を問いなおすことは西洋を問いなおすことでもある。多くの地域では西洋文化に由来する制度や知の導入というかたちで近代化が図られたからだ。特殊性と普遍性との間の短絡を最も純粋かつ大規模に体現したものとして著者は「資本主義」を挙げるのだが、それは西洋の両義性を先鋭化した問題として立ち現れる。その前段階として『〈世界史〉の哲学 古代篇』ではキリストの生と死をめぐる検討に紙幅が費やされた。本書では死んだイエスの身体が西洋中世を動かしていく機制を思想史的かつ社会学的に分析していく。 死体を中心に繁栄する都市。まさに殺されても死なない死体が創った「中世」という時代。そのなかでヨーロッパのカトリック圏では聖権と俗権の顕著な二元性が発現した。それは何故なのか。 大澤は「聖権と俗権の拮抗的な二元性は、西洋中世が、父なる神と子なるキリストとを対等な契機として維持したことにその究極の原因を見るべきであろう」(p243)との認識を示し、その二元性を現実化している政治秩序こそが封建制であると結論づける。ゆえに厳密な意味での封建制はヨーロッパ中世のみに特徴的なものである。 さらに近代資本主義の萌芽をこの中世の時代に探り出そうとする。それはもっぱら「利子」をめぐる考察として展開される。 キリスト教に伏在しているポテンシャルが十全に発揮されるようになったとき、むしろ、利子は正当な報酬と見なされるようになったのである。これは、ラディカルなキリスト教徒(プロテスタント)の生活態度が資本主義の精神の原点になったという、あの機制の、先触れである。(p282) 中世という社会の謎はひとつの死なない死体の内に集約されている。大澤の壮大な見立てに従えば、この死体を目指していた巡礼の旅がその具体的な目標を解消し、外部へと一般的に開かれたとき、いわゆる「大航海」が始まり、資本主義の本格的な展開期に入った、ということになる。 本書にみる考察の大きな特徴は、キリスト教が最初から孕みもっていたパラドックスの種を可視化させることにあるといっていいだろう。中世に栄えた「宮廷愛」や「否定神学」にしても禁止や否定を通じて逆説的に神の実定的=肯定的な存在を確保する方法であったのだという。 フーコーやラカン、ドゥルーズらに依拠して繰り広げられる大澤の考察は、例によっていささかアクロバティックでパッチワーク的な印象も否めないのだが、その自由闊達な思索にはやはり面白味を充分に感じとることができた。
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