世代から世代へ育まれた珠玉の言葉〜『誰も知らない世界のことわざ』

●エラ・フランシス・サンダース著『誰も知らない世界のことわざ』(前田まゆみ訳)/創元社/2016年10月発行

b0072887_1912452.jpg 同じ著者による世界的ベストセラー『翻訳できない世界のことば』の姉妹編ともいうべき本。本書は世界中からユニークなことわざを集めたもので、世界各地の言語表現への熱い関心を示している点では前著とコンセプトは共通する。著者自身のイラストを添えた親しみやすい編集スタイルもそのまま踏襲している。

 ことわざにはその言語を話す人々に共通の世界観なり人間観なりが端的に表現されているものだ。一定の時間をくぐりぬけて現代に伝わってきているものだから、短い言葉のなかにキラリと光る世界の真実の一面を端的に言い表わしているともいえるだろう。もちろん互いに矛盾するようなことわざの組合せも少なくないけれど、それはそれで世界の多面性を反映しているとも考えられる。

〈カラスが飛び立ち、梨が落ちる〉という韓国語のことわざは、いかにも関係がありそうな二つのことがらの間に必ずしも因果関係があるわけではないことを表現したもの。人間には、おしなべて意味のない情報から意味のあるパターンを見出そうとする傾向があると著者はいう。

 ポルトガルに伝わる〈ロバにスポンジケーキ〉は、日本や英語圏なら「豚に真珠」に相当する。それを得るに値しない人に何かを与えることの無意味さについては、古来、各地においてざまざまな比喩でもって表現されてきたようである。

〈目から遠ざかれば、心からも〉は「去る者は日々に疎し」のヘブライ語版。〈ある日はハチミツ、ある日はタマネギ〉は「勝つこともあれば負けることもある」というアラビア語の古諺で、英語の “You win some, you lose some” にあたる。

〈水を持ってきてくれる人はそのいれものをこわす人でもある〉はガー語のことわざ。「ガー」はガーナの一部族とその言語の名称である。遠い所へ水を汲みに行く人は、それゆえに水を入れる器を最も壊しがちであるということを述べたものだ。すなわち、何かを成し遂げようと努力してその最中にうっかりミスをしてしまってもその人を批判すべきでない、という含意がこめられている。

 ヒンディー語のことわざ〈水が半分しか入っていない壺のほうが水がよくはねる〉は「本当の知識を持っていない人に限って、必要以上の大声で語り、飛び回り、また腕を大きく動かしておおげさな身ぶり手ぶりをする」という意味をあらわす。本邦の政治家の言動をみているとなるほど真実の一面をついているのではないかと思う。

〈一輪の花だけが春をつくるのではない〉というアルーマニア語の表現は「たとえ重要そうに見えても、ひとつの現象だけでは全体を判断できない」ことを教えるものである。情報化社会の現代にいっそう当てはまりそうな箴言といえようか。

 本書を読むと、世界には様々な言い回しの妙があることを知ると同時に、表現は異なっていても同じような人生訓や世界観を人類は共有しているのだなとも感じる。ちなみに数ある日本語のことわざから選ばれたのは〈サルも木から落ちる〉〈猫をかぶる〉の二つ。

 強いて本書の難をいえば、アフリカ系言語からの選択が少ないことだろうか。ツイッターなどで見かけるアフリカのことわざにはユニークで面白いものが多いので本書にも期待したのだが、その点はやや残念な構成。さらに、それぞれのことわざに付けられた著者のコメントがいささか野暮ったい感じがした。もちろんそれらの点を差し引いても楽しく読める本には違いない。
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# by syunpo | 2017-11-16 19:07 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

かくて私には歌がのこつた〜『中原中也』

●佐々木幹郎著『中原中也 沈黙の音楽』/岩波書店/2017年8月発行

b0072887_1942413.jpg 中原中也の詩のなかにある「歌」を聴く。それは最終的には「沈黙の音楽」としてある。──本書は、みずからも詩人でもあり一九九八年に評論『中原中也』でサントリー学芸賞を受賞した佐々木幹郎ならではの秀逸な中原中也論といえる。

 たとえば開巻そうそうに記された「中原中也が詩のなかに、字下げの箇所を作るようになったのは、おそらく詩の言葉のなかにある『音楽』を意識したからだろうと思われる」との指摘はいわば本書のメインテーマを奏でる前の序曲といった趣だ。

 実際、中也は諸井三郎ら同時代の音楽家たちとも交友し、生前にも自作の詩に曲をつけてもらうことが何度もあった。しかしそういう次元の話にはとどまらない。佐々木は中也の詩を徹底的に読み、その言葉に「歌」を聴き、音を聴き、それが究極的には「沈黙の音楽」として成立していることを全編をとおして論じているのだ。

 ここでクロースアップされるのが岩野泡鳴である。彼は評論『神秘的半獣主義』のなかで「言語も表象であれば、音響も表象だ」と述べ、言語と音響とを並立して論じた。これは当時としては画期的なものであったという。中也がこの評論を読んだかどうかは定かではないが、泡鳴から様々な影響を受けたことはよく知られている。

  ある朝 僕は 空の 中に、
 黒い 旗が はためくを 見た。
  はたはた それは はためいて ゐたが、
 音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
 (『在りし日の歌』所収〈曇天〉より)


 佐々木によると、この詩は泡鳴が『新体詩の作法』で、日本の詩は二、三、四音を音律的な基礎としていると論じたことに従ったもので、彼が提唱した分かち書きの記述法で書かれている。

 ……中也が目指していた「歌」と「声」は、この作品に見られるように、岩野泡鳴と呼応して、日本の詩語のなかに、文字化されることによって削り取られてしまった身体的なリズムを回復しようとしていた。しかも、「ゆたりゆたり」とした「旗」のなびく反復運動の音は、無音(沈黙)であることが重要で、それが究極の「歌」として成立したのである。(p143)

 佐々木は、むろんこの詩だけでなく他の作品にも沈黙の音楽を聴き取ろうとして緻密な読解を披瀝していく。とりわけ〈汚れつちまつた悲しみに……〉〈生ひ立ちの歌〉など雪が登場する詩作品から、雪の声を聴く論考は本書の核心を成すものだろう。

 もう一つ「歌」に関連して興味深く思ったのは、中也が民謡の作詞をしていたことである。彼は晩年に極度の神経衰弱を患い入院生活を余儀なくされたが、そこで「療養日誌」をつけていたらしい。一九九九年に発見されたその日誌に民謡が記されていたのだ。もっとも中也の熱心な読者にはよく知られた事実かもしれないけれど。

 丘の上サあがつて、丘の上サあがつて、
  千葉の街サ見たば、千葉の街サ見たばヨ、
 県庁の屋根の上に、県庁の屋根の上にヨ、
  緑のお椀が一つ、ふせてあつた。
 そのお椀にヨ、その緑のお椀に、
  雨サ降つたば、雨サ降つたばヨ、
 つやがー出る、つやがー出る(p241)


 病棟にあっても詩人であること、という強い意志がこの俗語で書かれた詩には秘められているように思う、と佐々木は書いている。そして、中也は詩人としての自分を認めよと院長に伝えたかったのだ、とその心中を推し量るのである。

 中原中也は、若い頃に短歌をつくることで詩人としての才能を発揮し始め、長男を失ってもそれゆえに神経を病んでも、詩人であること歌うことを希求し続け実践した。そのすがたが本書からはひしひしと伝わってくる。自筆原稿などの新発見資料を丁寧に読み込んだ解釈は、時に細かで専門的な議論に傾きがちだが、本書から立ち上がってくる中原中也像には中原文学を読み味わうのに新たなヒントが随所に刻まれているような気がする。
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# by syunpo | 2017-11-12 19:06 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

「規則」を守る安心、慣れていく危険〜『茶色の朝』

●フランク・パヴロフ著『茶色の朝』(藤本一勇訳)/大月書店/2003年12月発行

b0072887_18501348.jpg 著者のフランク・パヴロフはフランスとブルガリアの二重国籍をもつ心理学者・人権活動家。ジャン=マリー・ルペン率いる極右政党・国民戦線の台頭に危機感をおぼえ、強い抗議の意思表示として本作を書いたという。

 内容はいたってシンプルな寓話である。最初に茶色以外のペットを飼うことを禁じる法律ができる。語り手の俺と友人シャルリーは、そのために飼っていた犬や猫を安楽死処分したことをコーヒーを飲みながら話しているシーンから本作は始まる。犬を処分した友人に対して俺は「きっと彼は正しいのだろう」と思う。

 それからしばらくして「茶色新報」以外の新聞が発禁になる。犬や猫という単語を出す場合には茶色という言葉をくっつけなければならない。それに反する出版社の本は強制撤去を命じられた。

 そうして二人は当然のように茶色の犬や猫を飼うようになった。茶色のペットたちと同じ部屋でチャンピオンズカップの決勝戦を見る。それは「すごく快適な時間」だった。こうして俺は「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考える。

 ところが、次には過去に茶色以外の犬や猫を飼っていた行為も違法と認定されることになった。シャルリーは自警団に連行される。「前に飼っていただけで違法になるなら、俺も自警団のいい餌食だ」……こうして次第に状況はエスカレートしていき、ついには、俺の部屋のドアをたたく音が聞こえて……。

 すべてが「茶色」になっていく社会。その進展が淡々と描かれていく。俺もシャルリーも最後まで抵抗らしき抵抗を示すことはない。本文には「全体主義」や「ファシズム」という言葉は一度たりとも出てこない。そうしたことがいっそう全体主義化が進みゆくときの恐ろしさを暗示しているともいえるだろう。

 本書の巻末にメッセージを寄せている高橋哲哉によれば、茶色はフランス人にとって、ナチスを連想させる色なのだという。ナチス党は初期に茶色(褐色)のシャツを制服として採用していたからだ。そのイメージは今日にも受け継がれ、さらに拡張されて、ファシズムや全体主義などと親和性をもつ「極右」を連想させる色になっているらしい。

 この物語が書かれたのは一九九八年。日本版の刊行は二〇〇三年である。 その後、日本では本書に相似する事態がひたひたと進行し、しかもそれに抗おうとするリベラル勢力への冷笑的態度もまたインテリ層を含めて強くなってきている。フランスでの刊行当時以上に現代ニッポンで切実な意義を帯び始めた本といえるかもしれない。政治的なモチベーションが先行したためか内容にさほどの深みは感じられない寓話ではあるが、全体主義の基本的な様相を知るうえでは参考になる一冊ではないかと思う。

 なお日本版では、ヴィンセント・ギャロの挿絵一四点が添えられていて、高橋哲哉による〈メッセージ〉ともども日本のみのオリジナル編集になっている。
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# by syunpo | 2017-11-07 19:00 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

「蒐集」の歴史のあと〜『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』

●水野和夫著『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』/集英社/2017年5月発行

b0072887_1942698.jpg 資本主義の破綻。国民国家の機能不全。……それらは無関係に生じているのではない。国民国家の基盤である、五〇〇年続いた近代システムそのものが、八〇〇年の資本主義とともに終わりを迎えつつある。これが本書の基本認識である。

 では、新たな時代にはいかなるシステムや社会形態が望ましいのか。エコノミスト・水野和夫は、歴史的な視点をもとに経済学の垣根を超えた知的成果に立脚して、近未来への道標を提示しようとする。

 人類史を読み説くうえでの本書のキーワードは「蒐集」。英国の歴史家、ジョン・エルスナーとロジャー・カーディナルが「社会秩序それ自体が本質的に蒐集的」と述べたことに基づいている。
 水野によれば、現代は蒐集することが限界にいたった時代である。フロンティアはもう地球上には残っていない。すなわち「五〇〇〇年も続いた『蒐集』の歴史の終わり」のときを迎えているのだ。

 平等が要請される国民国家システムと格差を生んで資本を増やす資本主義が矛盾を露呈することなく両立できるのは、「実物投資空間」が無限で経済が成長し続ける場合においてのみなのです。(p183)

「作れば売れる」というセイの法則が成立しない現代において、資本主義と民主主義が結合することはない。この条件を忘れて成長を追い求めれば、そのツケは民主主義の破壊となって現れる、と水野はいう。

 水野はそのような議論を、利子率や経済成長率の世界的変遷やなどを検討し、エビデンスに基いてすすめていく。日本は一九九七年に、一〇年国債の利回りが二・〇%を下回った。超低金利の時代がすでに二〇年続いている。それは端的に資本主義の危機を示すものなのである。

 中世から近代への移行期、ブローデルが「長い一六世紀」と呼んだ大転換期のさなかに超低金利が生じたが、それは「歴史の歯車が動くサイン」だった。同じことは低金利を迎えている現代にもいえる。いわば「長い二一世紀」と呼ぶべき大転換期を迎えているのだ。

 それでは、以上のような歴史的危機を乗り越えるために求められるシステムとはいかなるものであろうか。

 世界を拡張していくような従来のやり方では経済をうまく回していくことは望めない。また現在の国民国家では政治的な要請に対しては充分に対応することができない。世界秩序に対して責任を担うことができないし、地域の細かなニーズを吸収することもむずかしい。

 もはや、無限の膨張が不可能なことは明らかなのですから、ポスト近代システムは、一定の経済圏で自給体制をつくり、その外に富(資本)や財が出ていかないようにすることが必要です。その条件を満たすには、「閉じてゆく」ことが不可欠になります。(p207)

 すなわち「政治的には地域帝国、経済的には定常状態、すなわち資本蓄積をしないという方向性」を提起する。「閉じた帝国」が複数並び立つという世界システム。それこそがこれからの時代を生きていくために適した世界のあり方なのだと水野は結論づける。

 ちなみに「地域的・世界的権威」は地域帝国がもち、「国家・民族の下位にある権威」は地方政府がもつという構想は、水野の創見ではなく国際政治学者のヘドリー・ブルを参照したものである。

「閉じた帝国」の具体例として、水野はEUの例を挙げている。一国単位の主権でおこなうのが難しい政治課題については「帝国のような大きい単位の共同体」で対応すべしというわけである。

 また経済のあり方としては、ブローデルの市場経済論を引用している。ブローデルは市場経済と資本主義を区別した。前者は「予想外のことの起こらぬ『透明』な交換、各自があらかじめ一部始終を知っていて、つねにほどほどのものである利益が大体推測できるような交換」を指す。それは資本家が不透明な取引から富を獲得する資本主義とは異なるものである。水野はこの「市場経済」という概念が、新しい経済システムのヒントになると指摘する。

 留保つきながらも「帝国」を再評価する議論じたいは、文脈がやや異なるとはいえ柄谷行人や佐藤優など何人もの論客が提起してきたもので、とくに斬新というわけではない。また帝国が並び立つ世界秩序は地球全体の秩序に責任をもちうる主体とは言い難く、資本主義の暴走がもたらした地球規模の課題をうまく解決できるのかという点では疑問もなくはない。
 しかしながら、広汎な分野から知見をとりいれたスケール豊かな本書の考察は、熟読に値するものだと私は思う。
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# by syunpo | 2017-10-30 19:15 | 経済 | Trackback | Comments(0)

救済もしくは平和〜『ヒューマニティーズ 哲学』

●中島隆博著『ヒューマニティーズ 哲学』/岩波書店/2009年5月発行

b0072887_18122936.jpg 人文学のエッセンスと可能性を、気鋭の執筆陣が平易に語る《ヒューマニティーズ》シリーズの一冊。ただしこの『哲学』に関しては、必ずしも平易とは言い難い。いや、はっきりいえば私にはすこぶる難解であった。

 もっとも、重要なことは冒頭にわかりやすく記されているように思う。

 では、「哲学とは何か」と問うことはどうなのだろうか。やはり、それもまた、終焉に位置し、時代錯誤的でることが不可欠なのだと思う。調和・和解・完結に向けて哲学を整序することではなく、猛り狂って限界をはみ出す哲学の力を解放すること。しかし、それによって、何が実現するというのだろうか。本論で考えたいのはこのことである。それは、現在の哲学というよりも、未来の哲学、哲学の未来に関わることだ。わたしはそれを最終的には、救済もしくは平和だと考えたい。(はじめにⅶ)

 議論の足がかりとして、まずジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの哲学の定義から語り起こしている。哲学とは「尺度なしに概念を創造すること」。ついで、ギリシア哲学や中国哲学の始まりの一端に言及し、ヴァルター・ベンヤミンを参照しつつ、哲学の「翻訳」的性格について考察をめぐらせる。

 そもそも哲学は、……(中略)……複数の言語に開かれ、他者の言葉に耳を傾け、その上で、あらたな概念に基づいた言説を紡ぎ出す実践でもある。ドゥルーズとガタリのギリシアを考えてみれば、異邦の哲学者のオピニオンに耳を傾けるためには、翻訳の経験を避けて通ることができない。そうであれば、哲学の言語は、その始まりにおいて、翻訳において成立したということもできる。(p38)

 さらには西田幾多郎の「無の論理」に着目、中国の近代哲学者・胡適を横に並べて、哲学と政治の関連について検討する。そのような過程を経たうえで、冒頭の問題提起に応えるかのように、サラ・ロイやハンナ・アーレントの論考に触れて、哲学の未来を展望するのである。

「国家と植民の問題、そして暴力からの救済と言語の問題を、繰り返し考え抜くこと」を強調して、「他者との共生」こそが哲学の目標であると同時に、哲学の実践そのものだという。

 このように大雑把に論旨をまとめてみたところで本書の真髄は伝わらないだろうと思う。思えば「救済」も「平和」も「共生」も多くの人が口にしている言葉である。一見すると凡庸な結論に失望する読者もいるかもしれない。実際、否定的な言葉を投げかけている感想文をネットでいくつか見かけた。しかし結論的命題のみに哲学の真髄が宿っているわけでもないだろう。

 というわけで私のような浅学非才が本書について主観的に言えることはあまりない。来るべき哲学に向けて、一つの有効な道標として受け取る読者があらわれる可能性を想像し、中途半端ながらもここに本書を紹介する次第である。
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# by syunpo | 2017-10-20 18:18 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)