様々な角度からのアプローチ〜『日本の右傾化』

●塚田穂高編著『徹底検証 日本の右傾化』/筑摩書房/2017年3月発行

b0072887_2027929.jpg 日本社会の右傾化について論じられることが多くなった。その動向を主導したとされる政治団体の内情を調査した本や、政権与党を軸にみた右傾化論など、関連書籍は数多く刊行されている。

 宗教社会学者の塚田穂高が編者となっている本書では、日本における右傾化を様々な角度から検証する。ただし全体を貫く右傾化の定義は行なわれていない。

「日本の右傾化」と大きく括られているそれを、いったん限られたテーマに分解・細分化する。それぞれの領域の専門家が自身のフィールドについて、信頼できるデータと資料を駆使しながら検討し、それを幾重にも重ね合わせる。その作業が必要であり、本書が目指すのはそれである。(p10)

 こうして本書は〈壊れる社会〉〈政治と市民〉〈国家と教育〉〈家族と女性〉〈言論と報道〉〈蠢動する宗教〉と題した六つのセクションに仕分けられている。それぞれに三〜五篇の論考を配するという構成で、寄稿者は二十一名。

〈壊れる社会〉では、新自由主義と結託した新保守主義やレイシズム、ヘイトスピーチに関する昨今の社会状況が概括されている。
 そのなかでは、在日コリアンに対するレイシズムのあり方と日本の右傾化との関係を検証した高史明の論考を興味深く読んだ。高は「ある側面ではリベラルな方向への変化がありながら、他の側面では右傾化が進行している状態である」との認識を示している。後者の側面の一つとして在日コリアンに対する不寛容性の問題があるとみる。

〈政治と市民〉は、サブタイトルにうたうとおり「右傾化はどこで起こっているのか」を検討する。社会学者の樋口直人は「右傾化とは、近隣諸国への敵意や歴史修正主義を指す」と規定したうえで「全体としては今世紀に入って右傾化が進んだといってよいだろう」と結論している。ただし「市民社会は外国人排斥の動きを容認せず、政治から持ち込まれた右傾化に抗してきた」とみて、そこに可能性の胚胎を見出している。

〈国家と教育〉では、宗教社会学者のマーク・R・マリンズが外国人として唯一本書に寄稿しているのが注目されよう。マリンズは震災後の日本における愛国心教育の復活に象徴されるような政治的動向を、それ以前からの文脈で捉え、懸念を示す。自民党の改憲案は政教分離の原則を逸脱するものであり「宗教的マイノリティへの公的な抑圧につながる可能性がある」と警鐘を鳴らすのである。

 女性執筆陣による〈家族と女性〉に関する右傾化の検証は、改憲論の隠れたテーマともいえる重要な問題でいずれも教えられるところが多かった。
 清末愛紗の憲法二四条に焦点を定めた考察が鋭い。二四条改憲論者が「利己主義」「個人主義」への非難という常套表現を使って主張していることは、煎じ詰めれば「男女平等はやだ」「戦前みたいに男が威張れる社会に戻したい」ってことに要約されるのではないかと思われる。いわばオッサンの利己主義復古宣言とでもいえばいいか。

 斉藤正美は「少子化対策に名を借りた婚活支援政策は、結婚、妊娠、出産支援などを通して、国家による家庭への介入を強めることに寄与している」と述べ、官製婚活の展開を戦中の「結婚報国」や「産児報国」に準えて警戒感を示しているのが印象に残った。

 堀内京子は税制面から右傾化をとらえるもので、話が具体的であるだけにこちらも説得力を感じさせる。たとえば「夫婦控除」の問題。「法律的に結婚している」人だけが減税対象になると、独身者やLGBT、事実婚カップル、離婚者、シングルマザーなどは対象外になるわけで、それは結果として「ペナルティ」となり、多様な生き方が否定されているということになるだろう。

〈言論と報道〉では、「日本スゴイ」という国民の物語を批判的に検証した早川タダノリ、歴史戦の決戦兵器「WGIP」論の欺瞞を指摘する能川元一など、いずれも持ち味を発揮した一文を寄せている。能川元一によると「『洗脳』という語は中国帰還者連絡会(中帰連)のメンバーが行ってきた旧日本軍の戦争犯罪に関する証言を、右派が否認する際の決まり文句だったのである」。そのような洗脳を支えるのが「WGIP」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)論。それは右派論客にとっては応用範囲の広い「理論」といえるので注意が必要だ。

〈蠢動する宗教〉では、神道(政治連盟)、創価学会、統一教会=勝共連合、幸福の科学の動向があとづけられている。なかでも藤田庄市による公明党の自民党「内棲」化論が秀逸。章全体を総括する形で編者の塚田穂高による論考が最後に収められていて、宗教を類型的に把握しようとする考察は問題を整理するのに良い。

 物足りないところがあるとすれば、官僚機構における右傾化の動きについてまったく言及されていない点だろうか。なお巻末には「日本の右傾化」を考えるためのブックガイドを掲載しており読者への便益をはかっている。
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# by syunpo | 2017-09-19 20:31 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

訴えられたことのない物書きなど信用しない〜『わが筆禍史』

●佐高信著『わが筆禍史』/河出書房新社/2017年8月発行

b0072887_18135082.jpg 辛口批評で知られる佐高信は、あちこちでトラブルを起こしてきたらしい。訴訟騒ぎも一つや二つではない。「一度も訴えられたことのない物書きなど、私は信用していない」とまで佐高はいう。本書はそんな人騒がせな物書きがこれまで体験してきた「筆禍」の数々について書き記したものである。

 佐高の喧嘩相手となった人物は左右両翼にまたがっていて多士済済である。日向方齋、渡辺恒雄、木村剛、渡辺淳一、中坊公平、猪瀬直樹……。日本共産党ともあるイベントをめぐって一悶着あったらしい。

 生々しい事象を扱っているので、佐高の言い分のみを鵜呑みにするわけにはいかない。共産党批判などいささか粗雑で紋切型という気がするし、下品な表現も少なくないように思われる。が、本書をとおして、メディア側の萎縮や自制なども浮かびあがってきて、それなりに社会的価値を有する本になっていることは確かである。

 小渕恵三が首相をつとめていた時の挿話が印象的。佐高は小渕に対して「オブツ」呼ばわりした文章を週刊誌に発表した。その後、さるパーティで小渕首相に遭遇する。彼は「批判する人も必要だから」と言って握手を求めてきたのだという。さて、現首相にそれだけの器量があるのかどうか。
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# by syunpo | 2017-09-16 18:15 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

原始心像から元型へ〜『無意識の構造』

●河合隼雄著『無意識の構造 改版』/中央公論新社/2017年5月発行(改版)

b0072887_18502982.jpg 無意識という用語は今でこそ私たち一般人も普通に使っているが、その概念が初めて提起されたときには人々を驚かせたはずである。意識のなかに、いや意識と対立するものとして、そのような概念がありうるとは誰も考えていなかったのだから。

 無意識という概念を最初に打ち出したのはいうまでもなくフロイトである。ユングもその考えに魅せられて二人は意気投合するものの、やがて二人はたもとを分かつことになった。「フロイトが個人的な親子関係を基にして、エディプス・コンプレックスを強調するのに対して、ユングが普遍的な母なるものの存在を主張し、フロイトから離別していった」ということらしい。

 本書は日本におけるユング心理学者の第一人者として活躍した河合隼雄が一九七七年に刊行した新書の改版。文字どおりユング心理学における無意識の構造を入門書的に解説したものである。

 河合がユングの考え方に独自性をみることの一つとして「無意識内に存在する創造性に注目し」たことが挙げられる。「退行現象が常に病的なものとは限らず、創造的な側面をもつことを指摘したのはユングの功績である」という。

 すべて創造的なものには、相反するものの統合がなんらかの形で認められる。両立しがたいと思われていたものが、ひとつに統合されることによって創造がなされる。(p57)

 またユング心理学の鍵言葉となっている「元型」なる概念を打ち出したこともよく知られている。

 ユングは統合失調症患者の幻覚や妄想を研究するうちに、それらが世界中の神話などと共通のパターンや主題を有することに気づいた。それらのイメージはきわめて印象的で、人をひきつける力をもっている。

 ユングはそれらの典型的なイメージを、当初は、ヤーコプ・ブルクハルトの用語を借りて「原始心像」と呼んだ。その後、それらのイメージのもととなる型が無意識内に存在すると考え、それを「元型」と呼ぶようになった。

 元型は人類に共通なものと仮定されるが、文化の差異によってそれのあらわれ方に微妙な差があることにも注目していきたい、と河合はいう。

 今ひとつ私的に興味深く思えたのは、自己実現の過程を述べた最終章である。ユングは〈自己〉と〈自我〉を区別して、自己実現のプロセスを考察した。

 人間の意識は〈自我〉を中心として、ある程度の統合性と安定性をもっているのだが、その安定性を崩してさえも、常にそれよりも高次の統合性へと志向する傾向が人間の心の中に存在すると考えられる。

 そのような心全体の統合の中心として〈自己〉の存在がある、とユングは考えたのだ。「自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものでなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する」。

 本書で述べられていることは、とくに性差に関わる問題では今となっては古臭く感じられる部分もなくはない。しかし「無意識」のあり方を知るうえでは今なお有益な入門書であることは確かだろう。
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# by syunpo | 2017-09-06 18:55 | 心理・精神医学 | Trackback | Comments(0)

ディーセントな暮らし、フェアな社会〜『僕らの社会主義』

●國分功一郎、山崎亮著『僕らの社会主義』/筑摩書房/2017年7月発行

b0072887_195392.jpg 気鋭の哲学者とコミュニティデザインを生業としている二人による異色の対談集である。ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリス、ロバート・オウエンらの名前で知られるイギリスの初期社会主義がメインテーマ。

 といっても社会主義の理念や構想を真っ向から吟味するということではない。山崎が「社会主義をスパイスのように」取り扱うことを明言しているように、初期社会主義的な考え方を取っ掛かりとして、そこから地方創生や社会福祉、民主主義活性化のための方策などなど、話は多方面に展開していくのである。

 二人が初期社会主義から導出する理念としては「誰しもがディーセントな暮らしのできるフェアな社会」という英国労働党のジェレミー・コービンの言葉に集約されるだろうか。國分がその言葉を引用しつつ、社会主義が人々の心に強く訴えかけていた時代、そこにどのような魅力があったのか、ディーセンシーやフェアネスといった言葉で表現できるかもしれない、と指摘するのだ。

 それにしても二人が現代的に解釈し直そうと試みる「社会主義」にさほどの魅力を感じることはできなかった。それは資本主義を前提しつつ、その綻びを補正していく社民主義と似たようなものといえば失礼になるだろうか。

 本書に面白味があるとすれば「社会主義」とは直接関係のない箇所である。たとえば山崎が実践しているという公共建築をめぐるワークショップなどは今風の用語でいえば熟議民主主義の試みともいえそうで、そのあたりの話はもう少し具体的に聞いてみたかった。
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# by syunpo | 2017-08-26 19:06 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

クヨクヨすることから表現は始まる!?〜『コンプレックス文化論』

●武田砂鉄著『コンプレックス文化論』/文藝春秋/2017年7月発行

b0072887_1964470.jpg コンプレックスについて語る。といっても本当に切実そうなものからネタ的なものまで種々雑多。リストアップされているのは〈天然パーマ〉〈下戸〉〈解雇〉〈一重〉〈親が金持ち〉〈セーラー服〉〈遅刻〉〈実家暮らし〉〈背が低い〉〈ハゲ〉の十項目である。

 それぞれの項目について、該当者へのインタビューをはさんで、関連するテクストを読み込み文化全般に目配りのきいた武田の批評的なエッセイを配する、という趣向。

 本書を読んであるある的な実感を得て安心するというような人がどれだけいるのかわからないが、かといって語られている内容に対して生真面目に反論したり違和感を表明したりする本でもないだろう。武田のクネクネした文章芸を楽しめばよろしいと思う。

 もっとも身体や生育環境に起因するコンプレックスがなにがしかの表現活動を産出する原動力になるというテーゼは、それじたいが一つの紋切型ではある。そういう意味では〈解雇〉とか〈遅刻〉など、通常なら「コンプレックス」の範疇に入ることのない異なった次元にあるものをテーマに採った場合に、武田の批評精神がいっそう活きているように思われる。

 たとえば〈解雇〉の場合、ロックバンドにまつわる解雇の事例を概観したうえで、所属事務所から契約解消され「ハイパー・メディア・フリーター」として活動している黒田勇樹へのインタビューをはさんで、シモーヌ・ヴェイユなんかを引用して「切実な表現は残酷な解雇から生まれる」と結論する展開は武田ならでは。

 これが〈遅刻〉話になると、仕事が遅れ気味だった宮崎駿の例をもちだし、中谷宇吉郎の随筆を引いて時間厳守することの精神的疲弊を指摘した後に、遅刻の常習犯・安齋肇のインタビューにすすむという寸法。主張の中味よりも道具立ての面白さで読ませるといったおもむきである。

 つけ加えれば〈親が金持ち〉コンプレックス論などは、貧乏人の私にはほとんどシュールレアリスムの世界をのぞいたような異様な読後感をもたらしてくれた。

 デビュー作の『紋切型社会』の切れ味には及ばないけれど、各界のコンプレックス文化人の語りと武田節がほどよくハーモニーを奏でた奇妙で興味深い本といっておこう。
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# by syunpo | 2017-08-24 19:10 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)