カテゴリ:国際関係論( 18 )

平和利用と軍事利用の一体性〜『日米〈核〉同盟』

●太田昌克著『日米〈核〉同盟 原爆、核の傘、フクシマ』/岩波書店/2014年8月発行

b0072887_2003237.jpg 日米同盟とは「核の同盟」である。核には軍事利用としての核兵器と平和利用としての原子力発電がある。日本は外形上は前者を自粛し後者のみを推進してきたが、実際には両者は表裏一体のものである。

 本書は、そのような認識に基づき、戦後における日米の同盟関係について核を軸にしてみていく。著者の太田昌克は共同通信で長らくこの問題を追ってきた記者である。

 西側同盟の盟主米国は、冷戦の激化に合わせ世界唯一の戦争被爆国である日本の領土に、核戦力を前線配備しようとした。核兵器にきわめて敏感な反応を示す日本人にいずれ各配備を受け入れさせるために行なったのが「原子力の平和利用」による「核ならし」という、日本国内世論のマインドコントロールだった。(p19)

 核の「平和利用」と「軍事利用」がコインの裏表の関係をなしていること、まさにその原子力の表裏一体性ゆえに、稀にみる核被害国である日本は、米国の思い描く原子力レジームに組み入れられていったのだ。(p19)

 こうして日本の原発は米国から技術導入された。福島で原発事故が発生した時、米国が素早い対応を見せたのも戦後の日米〈核〉同盟の歴史からみれば当然のことであったろう。

 原子力の軍事利用たる核兵器については、米国の「核の傘」を受け入れていった経過を概観しているのだが、安保改定を主導した官僚の一人は非核三原則を「バカな話」とはっきり酷評していたというのには驚かされる。ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作もまた「非核三原則の『持ち込ませず』は誤りであったと反省している」と言い切ることがあったらしい。さらに核密約が外務官僚主導で行なわれてきたことを具体的に明らかにしているのも考えさせられる史実である。

 外務次官経験者らの証言からは、もう一つの重大事実が浮かび上がった。それは、事務次官ら外務省の事務方中枢の裁量で政治家に重要情報を伝えるか伝えないかを決める「官僚主導」の密約管理の実態だ。(p71)

 あらゆる情報が政治家に伝達されているわけではないことは民主主義の観点からは大きな問題であるが、大臣がすぐに代わる政治状況のもとでは「危ない人には言わなかったと思う」との官僚レベルでの判断が優先されたらしい。

 米国の「核の傘」のもとで国家としての主体的な判断を停止させている日本の状況について、最後にエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』を引いているのは示唆に富む。「日米同盟は『核』という軛につながれた『核の同盟』である」と著者はいう。

 膨大な公文書の読み解きだけでなく関係者への取材を加えることによって本書では戦後の日米関係史がいっそう生々しく描出されることとなった。文献資料のみに頼ってややもすると一本調子の読み物になりがちな学者の論考とは違って、ジャーナリストのフットワークの軽さが活かされた新書といえるだろう。
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by syunpo | 2017-07-31 20:02 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

新たな列強の時代へ〜『中東から世界が崩れる』

●高橋和夫著『中東から世界が崩れる イランの復活、サウジアラビアの変貌』/NHK出版/2016年6月発行

b0072887_2045652.jpg 世界を人体にたとえると、中東は経済の血液(エネルギー)を体全体に送り出す心臓である。ここでの異常は世界に影響を与える。中東が混乱して崩れ、ブラック・ホールのように世界全体を吸い込んでしまう。そうしたシナリオを回避するためには当然ながら中東を理解することが重要になる。書名の「中東から世界が崩れる」とはそのような意味を込めている。

 ところで、日本での中東理解は宗教過多に陥りがちだと高橋和夫はいう。宗教の話をしてわかったような幻想にとりつかれるのは、そろそろやめよう。たいていの事象は宗教抜きでも理解できる。そこで本書では、宗教のみならず政治や経済にも着目し、問題の深層に光をあてていく。
 高橋は、イランとサウジアラビアを中心に中東情勢を解きほぐして、国際政治のうねりの中に位置づけなおす。そのうえで、国際社会が直面するテロや難民の問題を考え、最後に日本の立ち位置について検討する。

 中東で近代国家としての体裁を整えているのは、イラン、エジプト、トルコの三カ国だけ。残りは「国もどき」である。これが本書の基本認識だ。三カ国以外は「二〇世紀になって人工的につくられた“国もどき”」であり、強い国家意識を欠いているという。「国もどき」の代表格がサウジアラビア。工業化の水準、教育水準、労働力の構成、国民のアイデンティティーの強さなどを考えると、とうてい国家とはいえない。肉体労働者の多くは外国人であり、支配者層である王族は石油の富を使って国民の生活を保障している。イランが国際社会に復帰する一方、サウジアラビアが中東の盟主として存在感を示すことはこれからもないだろう。

 国もどきのエリアで統治が混乱をきたした間隙をぬってISが台頭してきたのは『イスラム国の野望』で詳述されているとおりである。米国のプレゼンスも低下しており、中東は新たな列強の時代を迎えつつある。当然、この地域の再編も考えられる。複雑で、多様で、曖昧とした世界が常態化する。日本を含む域外諸国は中東が本来持っていた世界への対応を迫られるだろう。

 日本はこの地域においては独自外交の蓄積がある。植民地をもった経験がないばかりか、ヨーロッパの植民地支配が残した後遺症への対処にも貢献してきた。ゆえに中東諸国からの信頼も厚い。中東に「善意の基盤」を持つ日本外交は大きな潜在力を秘めていると高橋はいう。テロと戦うという空疎で勇ましいかけ声を発するよりも、私たちは何よりもそうした「インフラ」を引き継いでいくべきだろう。

 高橋が新書形式で出している著作はおしなべて平易な語りで、晦渋なところはかけらもない。といって教科書風の堅苦しさはなく、文章には独特の味がある。本書も高橋の個性が発揮された良書ではないかと思う。
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by syunpo | 2016-08-30 20:06 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

「だまされない」という意思〜『21世紀の戦争と平和』

●孫崎享著『21世紀の戦争と平和 きみが知るべき日米関係の真実』/徳間書店/2016年6月発行

b0072887_18374748.jpg 外務省で情報調査局分析課長、国際情報局長などを歴任し、現在は評論家として活躍している孫崎享が文字どおり「二一世紀の戦争と平和」について考察した本である。

 第二次世界大戦後の国際秩序を概括し、日本の対米従属構造を明らかにしたうえで、集団的自衛権の行使が日本の平和にとってけっしてプラスにはならないことを説く。恒久的平和を実現するためには「東アジア共同体」構想の具体化が必要だとまとめる。

 引用が多く、同じような話題があちこちに散らばるなど筆致は粗削りという印象なきにしもあらずとはいえ、外交の現場にいた人ならではの具体的な論述はそれなりに説得力を感じさせることも確か。たとえば湾岸戦争のときの日本の財政支援が国際社会で評価されなかったことを指摘して軍事的行動の必要性を説くのはよくある議論だが、実際にはクウェートが日本に感謝していたことを孫崎は具体的事実にそって述べている。

 また末尾に引用されている伊丹万作の「戦争責任の問題」と題された論文はネット上でも昨今よく引用されているけれど、なるほど一読に値するものだと思う。
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by syunpo | 2016-08-10 18:38 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

異文化とともに生きる〜『イスラム化するヨーロッパ』

●三井美奈著『イスラム化するヨーロッパ』/新潮社/2015年12月発行

b0072887_2012728.jpg パリやエルサレムに駐在経験のある新聞記者によるルポルタージュ。イスラム化が進むヨーロッパとくにフランスの状況を手際よくまとめている。ヨーロッパからイスラム国に参加した人物の家族や、シャルリー・エブド事件の犯人を取調べた判事(日本の判事とはやや異なる?)などに取材していて、いかにも記者の手になる本という体裁である。

 テロの犠牲になったシャルリー編集部の校閲記者がイスラム教徒だということは初めて知った。「美しいフランス語への愛とイスラム教信仰は、彼の中で死ぬまで共存していた」。
 シャルリー・エブド紙の編集長、ステファン・シャルボニエが差別の犠牲者としてイスラム教徒に同情していたことが遺作に書き残されているという事実も興味深い。そうした意識とイスラム教を揶揄する漫画とが何故に共存できるのか。当人に直接聞く機会は永遠に失われたとはいえ、もう少し突っ込んだ記述が読みたかったところではある。

 対イスラムとの関係で西欧の失敗として著者があげていることは二点。第一に「西欧の価値観をイスラム教徒に押し付けすぎたこと」。宗教間の摩擦を避けるため政教分離をごり押しすることで、信仰を大事にするイスラム教徒にとっては生きにくい社会を作ってしまったのではないか。第二に「イスラム教徒のコミュニティを『多文化主義』の名目で放置すること」。英国や北欧がイスラム教徒の移民だけのコミュニティを認めた結果、過激派の温床になったと著者はみる。

 異文化を受け止め、共に生きる社会とは何か。それを熟慮し実効性のある政策を打ち出していくことはいかなる国にとっても容易なことではないだろう。だが、単純な排斥論や素朴な共生論ではどうにもならないことは明らかである。何はともあれ、本書はヨーロッパにおけるイスラム教徒の状況や政教分離の実相などの概況を知るうえでは有意義な本といえるだろう。
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by syunpo | 2016-04-22 20:02 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

対米従属からの脱却を〜『転換期の日本へ』

●ジョン・W・ダワー、ガバン・マコーマック著『転換期の日本へ 「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か』/NHK出版/2014年1月発行

b0072887_202397.jpg 東アジア情勢が緊迫度をましているなか、日本はどのような道を進むべきなのか。日本の現代史に詳しい二人の研究者による提言の書ともいうべき本である。三つの章から成る。ジョン・W・ダワーの論文とガバン・マコーマックの論文、両者による対談記録という構成である。

 内容的には日本の戦後社会についてサンフランシスコ体制を基点にして分析するものである。ダワーは「従属的独立」、マコーマックは「属国」という言葉を使って日本の戦後政治の矛盾や混迷を指摘している点では一貫している。その見方は本書でも引用されている孫崎享のほか、矢部宏治、白井聡らの戦後分析と重なり合うものだろう。全体を通してとくに新しい視座を提供してくれるものではないが、米国の世界戦略と中国の台頭と関連づけて論及している点に本書の特徴があるといえるかもしれない。

 今後の展望に関しては、サブタイトルに関連づけるならば、両者ともに「パックス・アメリカーナ」から「パックス・アジア」に移行すべきことを主張している点では共通している。とりわけマコーマックが「『大国』の覇権の下での平和体制ではなく、協商主義というか、権力の均衡と共同体を重視したかたちをとるべき」ことをくり返し力説している点が印象に残った。
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by syunpo | 2016-01-15 20:23 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

人間としての尊厳を回復するための〜『琉球独立論』

●松島泰勝著『琉球独立論 琉球民族のマニフェスト』/バジリコ/2014年7月発行

b0072887_19262782.jpg 琉球独立を提唱する書物はこれまでにも刊行されてきたが、本書は琉球の歴史や国際法、独立運動の国際比較など多面的な角度からその正当性を検証するものである。

「琉球の真実」を知れば、「琉球独立」が決してトリッキーな言葉遊びなどではなく、極めて普遍的でオーソドックスなテーゼであることがわかるはずだと著者は冒頭で述べている。なるほど本書を読んで琉球独立を主張することはけっして突飛なことでも絵空事でもないと理解することができた。

 琉球はもともと独立国であった。歴史上、沖縄の地名が使用されるようになったのは薩摩藩による武力を背景とした併合以後で、それ以前は琉球の地名が一般的に使われた。独立国として繁栄したのも琉球王国としてである。ゆえに本書では一貫して琉球の地名を使っている。

 琉球が沖縄と呼ばれるようになって以降は、構造的な差別と搾取がつづけられてきた。とりわけ戦後は日本国家の米国従属のもとで基地が押しつけられてきたのは周知の事実である。中央政府から政策的な経済支援があったとしても、それは地場産業を衰退させ、自然環境を破壊するものでしかなかった。白井聡のいう「永続敗戦」的な状況は琉球に凝縮してあらわれているともいえる。

 植民地状態からの脱却を目指すにあたって、松島は同時に太平洋の島嶼国との連携を提起している。琉球よりも人口の少ない島嶼の人々が独立を勝ち取ってきたという事実はなるほど研究に値するだろう。パラオ、マーシャル諸島、ソロモン諸島、ツバルなどここで紹介されている太平洋島嶼国はいずれも台湾と外交関係を締結しているのは興味深い。ちなみにこれらの島嶼国は今上天皇が二〇一五年の誕生日に際して出して談話のなかで言及している地域と多く重なりあう。

 本書の独立構想で注目に値するのは、各島嶼の自治に基づく共和国を提起している点である。琉球の歴史を振り返る時、入れ子状に差別構造が形成されてきた事実を無視することはできない。日本が琉球を差別してきたように琉球王国は周辺の宮古や奄美、八重山諸島を搾取してきた。その問題の反省と克服は必須である。そこで、各島の自治を尊重した連邦共和国の形態が望ましいというのが著者の主張だ。

 以上のような琉球独立への志向は、琉球以外の地域に住む日本人にとっても他人事ではない。琉球の人々が憲法九条の完全実施を掲げて独立に向かうとき、日本の安全保障体制も当然ながら安泰ではいられない。まさに日本の「永続敗戦」構造を抜本的に考えなおすことが求められるのである。
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by syunpo | 2016-01-04 19:35 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

日本は情報収集の優位性を活かせ〜『イスラム国の野望』

●高橋和夫著『イスラム国の野望』/幻冬舎/2015年1月発行

b0072887_18595125.jpg イスラム国に関する解説書は本書と相前後して数多出版されたが、複雑怪奇な中東情勢をいかにわかりやすくときほぐすかが一つの課題になっているように思われる。

 本書では「複雑な枝葉の部分をできるだけ省略し、大事なポイントだけを絞りに絞って、最大限にシンプルな解説をするよう心がけ」たという。噛み砕いた語り口はもともと著者の持ち味、口上どおりイスラム国をめぐる歴史的背景や中東情勢がコンパクトにまとめられている。

 イスラム国はイラクとシリアで勢力を急拡大させた。
 イラクは米軍撤退後のマリキ政権の失政が直接的には過激派台頭を招くことになったのだ。イスラム国が強かったというよりも、イラク中央政府がまったくダメだったという面が大きい。シリアではアサド勢力と反アサド勢力の対立に、内外の諸勢力がからんで「内戦の中に内戦がある」ような戦争のマトリョーシカ状態が生まれ、イスラム国につけいるスキを与えてしまった。
 政治の空白が危険な政治勢力を育む土壌になるという教訓は、この問題だけにいえることではないかもしれない。

 まとめの部分で、高橋は米軍によるイスラム国空爆の効果を一定程度認めたうえで、地上戦なしでも「じっくりと時間をかけて圧力をかけ続ければ、イスラム国は内部崩壊していくでしょう」との見通しを示している。また日本がとるべき道として、イスラム国に接近するジャーナリストや研究者の活動をあまり縛ることなく、情報面での優位を活かせるような政策的配慮の必要性を主張しているのが印象に残った。

 ナポリオーニの『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』がローマ建国を引き合いに出すなど時に射程の長い歴史的俯瞰の姿勢を見せているのに対して、本書は手堅く近現代の中東情勢にそって話をすすめている。文明論的な新しい視点を提示しようという余計な色気を抑えているぶん読みやすく仕上がっており、新書という形式にも適合した良き入門書といえるだろう。
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by syunpo | 2015-05-18 19:05 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

近代性と現実主義に立つテロ国家!?〜『イスラム国』

●ロレッタ・ナポリオーニ著『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』(村井章子訳)/文藝春秋/2015年1月発行

b0072887_21223054.jpg 二〇一四年六月、イラクとシリアの両国にまたがって急速に勢力を拡大してきたイスラム過激派の一組織が「イスラム国」と称してカリフ制国家の樹立を宣言した。
 人質殺害の映像をネットで公開するなど、その残虐性を隠さないばかりか戦略的に広報しているテロ組織が一定の領土を確保し、世界から兵士を集めることができるのは何故なのか。イスラム国と戦うためには、やはりその背景についての考察が必要となる。この〈カリフ制国家〉の本質は「数十年に及ぶ欧米の政治および中東への介入と深くむすびついている」のだ。

 本書の著者は、北欧諸国政府の対テロリズムのコンサルタントを務め、各国の元首脳らが理事に就いている民主主義のための国際組織の対テロファイアンス会議の議長にもなっている人物。

 イスラム国は何よりも「サイクス=ピコ協定」の終焉をうたっている。それは第一次世界大戦中にイギリスとフランスによって締結された秘密協定で、戦後のオスマン帝国の領土分割を定めたもの。この協定よって中東地域には人為的な国境線が引かれた。イスラム国はそのような欧州が勝手に決めた国境線の無効を主張しているわけである。

 欧米の専門家の多くはイスラム国をタリバンと同じ時代錯誤の組織だと考えているが、著者の認識は異なる。イスラム国が「先行するどの武装集団とも決定的にちがう点は、その近代性と現実主義にある」という。
 シリア内戦やイラクの混乱による政治の空白を巧みに利用し、新しい地域支配者を名乗るにいたった経緯をみると、グローバル化・多極化した世界において大国が直面する限界を明確に理解していたといえる。

 イスラム国がその残虐性を戦略的に示している一方で、国家を建設するための政治的パフォーマンスにも注目すべき点が多々ある。領土をとり、石油を確保して経済的に自立する。領土征服後には住民の承認を得ることにも熱心。道路を補修し、食料配給所を設け、電力を安定的に供給し、ポリオの予防接種まで行なっている。また高度な会計技術を使って財務書類を作成する労も惜しまない。

 イスラム国を過去の歴史と照らし合わせるとき、いくつかの類似点を先例に見出すことが可能である。
 イスラム国の考える国民国家とは、同一民族で構成されるだけでなく、民族と宗教を共にする国家である。この点はイスラエルに似ている。
 また著者はローマ建国をも想起して次のように述べている。

 これ(=イスラム国)と同じように野心的な国家建設プロジェクトは、じつは過去にもあった。全近代的な部族社会でなされたその建国プロセスもまた完全に武力に依存していたし、超自然的な権威によって正統性を誇示し、失われた黄金時代への郷愁を喚起しようとした。それは、ローマの建国である。(p96〜97)

 イスラム国の広報戦略はどうか。「国家としての正統性を主張するために『イスラム国』が使った手法は、じつに皮肉で逆説的なことに、アメリカに倣ったものだ」と指摘する。

 ナポリオーニは、そうした考察をおこなったうえで「外国の軍事介入が中東の不安定化の解決にならないことははっきりしている」と明言。この新しいパワーに対抗するには、戦争以外の手段を模索すべきである、という。
 事態の進展に合わせて緊急に出版されたもののようで、やや荒削りな記述であることは否めないが、イスラム国の背景を理解するうえでは有益な本といえよう。
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by syunpo | 2015-05-15 21:23 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

オバマ大統領よ、この声が聞こえるか〜『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』

●中村哲、澤地久枝(聞き手)著『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』/岩波書店/2010年2月発行

b0072887_1928038.jpg アフガニスタンで二十五年間にわたって復興活動を続けてきた医師・中村哲のことは、ときおりニュース番組に招かれて発言するのを見たくらいで、数ある著作も一冊とて読んだことがなく、詳しいことを何も知らなかった。

 本書は、ノンフィクション作家の澤地久枝が中村医師にインタビューした記録である。私生活についてはあまり語らない人物らしいのだが、ここではざっくばらんに話しているように感じられるのは、澤地の熱意の賜物か、インタビュアーとしての腕前に導かれての結果なのか。
 もっとも多忙なスケジュールを縫って何回かに分けて行なわれた対話を再構成したということで、一定の秩序のもとに中村の人間像や活動履歴を整然と文字化しようという意図は最初から放棄されていたようである。

 みずからの生い立ち——虫好きの少年だったこと、北九州の「川筋」気質が横溢した環境で育ったこと等々——をはじめ、伯父の作家・火野葦平の思い出や、十歳の息子を亡くした悲痛な体験、アフガニスタンの大学生活の回想、医療行為から井戸掘りや水路作りへと活動の幅を広げていった経緯、アフガンの政治的軍事的状況の概説など、話はあちらこちらに飛翔する。
 全編をとおして肩肘張らない雑談調で、話題の重複や順序などを気にする風もないのは、澤地の当初からの狙いなのだろう。その点が本書の面白味でもあり、やや漫然とした印象を与える所以でもある。

 それにしても、中村の言葉からは現場一筋に生きてきた人物のみが持ちうる説得力や迫力が感じられる。またクリスチャンでありつつ『論語』からも多くを学んだという面では中村医師の言葉は含蓄にも富んでいる。声高に語るわけではない。それでも、自身の活動に関する自負や悦びは十全に伝わってくる。

 やはり自然相手ですから、理念の空中戦というのはなくなります。そういう意味では、健全になっていきますよね。(p45)

 私たちの強さというのは、現に目の前に、私らの事業によって生活できる人があふれていること。そのことが何よりも雄弁なアピールです。胸を張って、こういう仕事で六十万人の人たちが、私たちの事業で食えていますという事実。それで私たちも喜んで働くし、それを支える側も「それはほんとうですか。お金の出しがいがあります」ということで続いているんですね。(p160)


 大国政府のやり方を大島渚的に激しく罵倒するわけでもない。が、その心のうちからなる怒りもまた充分に伝わってきた。

 マドラッサ(=モスクを中心とした教育施設)で学んでいる子どもを、タリバンというのですが、それはアラビア語です。単数形がタリバンですが、マドラッサで学ぶ子どものタリバンと、政治勢力としてのタリバンは違うのです。その区別もよくわからずに、「タリバンが集結している」というので爆撃して、「タリバンを八十名殺した」と新聞に載る。死んだのは皆、子どもだったとかね。(p76)

 また、自分たちを標的にして米軍ヘリが機銃掃射を浴びせてきたという事実や、カイバル峠を米軍が仕切り始めたために、援助活動はおろか現地人の往来にまで不便が及ぶようになったという事態なども淡々とした口調で明らかにされていく。
 ある講演会で「自分に何ができるか」という聴衆からの質問に対して「なにをするか」よりも「なにをしてはならないか」という言葉を返したというのも中村医師ならでは、と思う。

 米軍のプレゼンスが現地では様々な局面で生活の妨げになっているという、当事者から突きつけられた事実に対して、アフガン増派を主張し続けてきたオバマ大統領はどう答えるのだろうか。そんな米国に追随するだけの日本政府の振る舞いをどのように変えていけば良いのだろうか。
 日本では軍事活動活性化策として普及した珍妙な政治用語「国際貢献」に本来的な意味での再定義をほどこすためにも、また人が生きていくことの可能性や個人と社会との良き関わり方を模索している人たちのためにも、本書の言葉は様々な指針を与えてくれることだろう。
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by syunpo | 2010-08-10 19:36 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

21世紀の世界を照らす思想〜『ガンジーの危険な平和憲法案』

●C・ダグラス・ラミス著『ガンジーの危険な平和憲法案』/集英社/2009年8月発行

b0072887_10202082.jpg インド建国の父といわれるガンジーの思想は「非暴力・不服従」を核とするものとしてよく知られている。その戦略で大英帝国を祖国から追い払い、インドを独立に導いた。新生インドの中心を担ったのは同じく「非暴力主義」を掲げたインド国民会議だったが、彼らの制定した憲法では、軍事力の保持がうたわれ中央集権的な官僚国家像が描き上げられた。つまり「普通」の国家として出発したのである。

 その一方で、ガンジーは独自の憲法案を提案した。それはいうまでもなくみずからの「非暴力」思想を体現したものであった。しかしながら、その憲法案はインド国民会議の憲法作成委員会のなかではまったく議論されず黙殺されることとなった。ガンジーは失意のうちに凶弾に倒れ、この世を去った。

 ガンジーの憲法案は何故見向きもされなかったのか。インド国民はいよいよ独立するという段になってガンジーの基本理念を斥けたのか。

 ……だが、インド国民の多くは今もなおガンジーを敬い、ガンジーの思想に強い共感を示している。ガンジーの憲法案を斥けたにもかかわらず。
 それはどういうことなのか。

 著者によると、ガンジーを敬い続けることと戦力保持をうたう憲法をもつことは矛盾しないのである。何故なら、ガンジー自身が国家の暴力を肯定していた、という認識だからである。だが、その認識は正当なのか。

 ガンジーは述べている。
 「国家は、濃縮した暴力である。個人には魂はあるが、国家は魂のない機械である。国家の存在自体が暴力に由来するので、暴力から離乳することができない」

 この認識は政治学のごく一般的な常識に基づいたものにすぎない。ガンジー自身は条件つきで暴力の行使を認めるような言説を残してはいるものの、暴力以外の選択肢が存在する場合には暴力的な方法をきっぱりと拒否していた。そこでガンジーは国家が必然的に暴力を孕むものであるならば、国家以外の国家の形を模索するしかない、と考えたのである。それがガンジーの憲法案にあらわされていた。

 ガンジーの弟子シュリーマン・ナラヤン・アガルワルが出版した『自由インドのためのガンジー的憲法案』に記された国家像は以下のようなものである。
 インドにある七十万の村がそれぞれ独立した国(パンチャーヤット・ラージ)となり、その上に全国をつなぐ組織をつくる。それは国際機関のようなもので、村にアドバイスはできるが命令する権限をもたない。このような中央司令部のない国の構造であれば、軍隊を組織することも不可能である。すなわちガンジーの憲法案は究極の平和国家かつ脱中央集権国家を構想したものであった。
 
 インド国民会議はガンジーのこうした国家ビジョンを受け入れることを拒んだ。憲法作成委員会にインド政府の軍事力に関する条項が提出された日は、インドとパキスタンの分裂が確定した日の一週間後であり、両者の間で戦争が始まる数ヶ月前であった。
 「そのような状況下で、国民会議が軍隊のある国家を選んだことは不思議ではなく、……世界の『常識』のとおりだった」(p21)のである。

 非暴力の原理を捨てることは、国の創立者とされているガンジーの根本原理を捨てるという意味だが、その明白な事実を認めたくないインド国民が昔も今も多い、という現象について、ダグラス・ラミスは、精神分析用語にいう「否認状態」という概念で表現している。「ガンジーも戦争も両方とも捨てられない精神状態」をインドは生きてきたのだ。
 「彼らは『ガンジーは国の軍事力を否定していない』と信じることで、安心感を得ているのだろう」と著者はそのジレンマによる苦悩を推し量っている。

 幻となったガンジーの平和憲法案は、今日まったく意味のない文言となってしまっているのだろうか。ダグラス・ラミスは、主に主権在民や市民社会論の観点からガンジーの残した国家像に強い関心を寄せる。
 もちろん現在の社会では全国に散在する小規模の村々に主権を委ねるような政治形態は考えにくい。しかし、主権在民の理念が数年に一回の選挙でかろうじて担保されているような代議制デモクラシーに限界を感じる国民が多いのも事実である。著者はガンジーの村を「市民社会」と読み替え、そこに請願的陳情的な政治から脱却する、より直接的な政治の可能性を見いだすのである。

 グローバリズムに対抗する考え方として「グローカリズム」という造語が生まれたのはずいぶん前のことだが、ガンジーの〈パンチャーヤット・ラージ〉構想は、そうしたビジョンとも共鳴しあうのではないかと思う。
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by syunpo | 2010-03-25 10:33 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)