●高宮利行著『グーテンベルクの謎』/岩波書店/1998年12月発行
グーテンベルクが発明した活版印刷術はいうまでもなく書物の大量生産を可能にしたという点で時代を画するものであった。彼が手がけた印刷物とりわけ聖書は稀覯書として大いなる価値を有する。一九九六年、慶應義塾大学は西洋で最初の大規模な活版印刷本として知られる「グーテンベルク聖書」を日本橋丸善から購入した。同大学では同時にHUMIプロジェクトを発足して、図書館が所蔵する他の稀覯書をも併せてデジタル化する作業を開始した。慶應グーテンベルク聖書のデジタル化の第一段階はすでに完了し、インターネットでも公開されている。 本書の著者はHUMIプロジェクトに関わる書誌学の研究者。グーテンベルクが発明した活版印刷術が書物の出版にいかに用いられ、いかに後世に影響を与えたかを歴史的、文化的に概観するというのが本書の趣旨である。岩波書店の月刊誌『図書』に連載されたエッセイがもとになっているので一般読者にも読みやすい記述になっている。 鏡職人として出発したグーテンベルクには謎の部分も多く、また出資者ヨハン・フストとの間でトラブルが発生し中途で印刷機と職人を取り上げられたりしたため、グーテンベルク=活版印刷術の発明家という説には、異論もつきまとった。 グーテンベルクが活躍した一五世紀中にも、ヨハン・フストのほかヴェネツィアのニコラウス・イェンソンなどの名前が発明者として取り沙汰されたらしい。またそれに付随して印刷術発祥の地をめぐる論争もしばしば白熱した。グーテンベルクが事業を開始したマインツのほかに、彼が滞在したシュトラースブルクを有力視する見解もあり、印刷術の発明をめぐる論争は時に都市の名誉を賭けたものともなったのである。 活版印刷が普及する以前の書物はいうまでもなく写本であった。これは修道院、大学、都市の書籍工房……と中心となる生産者は移り変わっていったが、いずれも小規模で行なわれたものである。しかし、印刷・出版には近代的な資本主義の原理が働く。現代においても同様だが、本を売った代金は準備期間から数えてずっと後にならないと回収できないのである。その意味では印刷・出版には当初から経営者的な才覚とそれなりの資本が要求されたものと考えられる。 ところで印刷術の場合、通常は木版から活版へと進展してきたもののように思われるが、実際にはリニアな変化を示したのではなく、木版本の多くは活字本の出現の後に世に出たもので、民衆本の領域では活字本と競合関係にあった。つまり活字本は木版本の改良版として登場したものではなかった。 またローマ・カトリック教会が発行した「禁書目録」は、結果的に掲載された書物の宣伝となり、カトリック権力の及ばない地域で売上げ増の効果をもたらしたとする史実などもなかなかおもしろい。 書誌学の楽屋話的なくだりも読者の知的好奇心を大いに刺戟する。古い書物の印刷インクの飛沫や印刷活字の形状を特定するために大英図書館とロンドン警視庁のニセ札専従班が協力して画像スペクトル比較測定機を開発したという話、八〇もの現存写本に至る『カンタベリー物語』の写本系統図を作成するにあたっては、生化学者が研究に用いる発生系統学の理論を応用しているといったことなど、書誌学における最先端の研究状況も紹介されている。本書の刊行は十年以上も前のことだから、今では研究技法のさらなる洗練・進展がなされていることだろう。 いささか慶應HUMIプロジェクトの広報的な叙述も目につくが、著者の立場からすれば無理からぬこと。グーテンベルクや活版印刷術、また稀覯書の保存・伝承といった問題に関心のある読者にはおもしろく読める本だと思う。
●斎藤環著『メディアは存在しない』/NTT出版/2007年10月発行
メディアは存在しない。これはジャック・ラカンのテーゼ「女性は存在しない」をモジったものである。メディアは存在しない。すなわちメディアを存在論的な根拠として用いることの不可能性について斎藤は語ろうとする。もっとわかりやすくいえば、人間はメディアごときの力で本質的に変わることはない、ということである。 ただし、それはもっぱらマクルーハンをはじめ東浩紀、スラヴォイ・ジジェク、西垣通らのメディア論の批判的検討を通じてなされている。その意味では〈メディア〉論であると同時に〈メディア論〉論といった趣も濃い。 ジジェクも東もラカンのいう象徴界の衰弱を指摘している。一般に象徴界には、社会・公共性・規範・父性などが対応させられているのだが、斎藤によれば「それらはすべて、イデオロギー化された象徴界にすぎない」。 今日のメディア論が性急に象徴界の衰弱を前提する大きな理由を斎藤はマクルーハンに見いだす。文字文化が人間の身体を空間的に拡張する思考に対して外爆発をもたらし、電子ネットワークが中枢神経組織自体の地球規模の拡張すなわち内爆発(内破)をもたらすという視点である。斎藤はこのような認識を「内破主義」と呼んで徹底的に批判するのだ。 メディアの作用によって人間の身体機能が道具的拡張を起こすことは自明の事実としてあるだろう。しかしながら、メディアは自律的なリアリティを生成することができない。たとえばCGがどれほど精緻化しようとも、いや精緻化すればするほど、それはリアリティから遠ざかる。メディアはさしあたり単なる「伝達」以上の付加価値をもたらすに至っていない。その程度の媒介作用が、すでに象徴界の強力な媒介作用のもとにある人間に対して構造的な変化をもたらすことはない。メディアの発達はただ人間の精神分析的な本質を露わにするように作用してきただけではないか。これが斎藤の首尾一貫した認識なのである。 本書のおもしろいところは、そのような斎藤の主張が全編を覆っているわけではなく、自身の見解に対する反論や疑義を本書のなかに盛り込んでいる点だ。 斎藤が記した西垣通《基礎情報学》の批判的論考に対しては、西垣本人から反論が寄せられ、その一文も本書で読むことができる。また末尾には斎藤のメディア論と対立する東浩紀と大澤真幸を迎えて議論した記録も収められている。もっともその鼎談を読むかぎり、斎藤が東からの批判的言辞に再考を余儀なくされるであろうような場面はほとんどなく(大澤は最初から調停者的な立場を明確にしている)、むしろ東の立論に対して斎藤が簡潔な突っ込みを入れている場面に、斎藤のラカニアンとしての立場が色濃くにじみでているように感じられた。 斎藤によれば、メディアとはつまり「コンテクストを与えるもの」にほかならず、コンテクストは精神分析的には、その存在を厳密には記述できない。すなわち、コンテクストは存在しない。そのかぎりで「メディアは存在しない」のである。 逆にいえば精神分析的方法を放棄したときには、メディアは厳然と存在することになるだろう。その意味では斎藤の言い分は一見挑発的ではあるけれど、結局のところ自身の精神科医としての立場を繰り返し宣言しただけのようにも思われる。
●森達也著『世界を信じるためのメソッド』/理論社/2006年12月発行
森達也はオウム真理教についてのテレビ番組製作で信者たちの「善良で、優しくて、気弱そうな」姿を描こうとして上層部から反感を買い、「クビ」になったテレビディレクターである。本書は、メディア・リテラシーの重要性を力説する書物としてとくに目新しいことが書かれているわけではないが、自身の体験談を含めて誠実に書かれた入門書ではあると思う。ただ、メディアに関しては新たな局面を迎えようとしている時代のリテラシー論としては全般的に物足りなさを禁じえない。著者がテレビ出身ということもあって、本書で言及されている媒体がオールド・メディア一辺倒なのだ。当然、ここで説かれているのは情報の受け手としての心構えばかりなのである。 本書が刊行されたのは二〇〇六年。ブログなど一般市民によるネット上での情報発信もすでに一般化していたわけで、若年層向けのシリーズ本である点も考慮するなら、情報の送り手になる可能性も充分想定されてよかったはずだ。一般市民が世の中の情報を一方的に受けとるだけの時代はすでに終わりつつあり、実際、双方向的なメディアの台頭が旧メディアの情報発信にも影響を及ぼしているのだ。 さらにもう一つ、「メディアを正しく使う」とか「正しい世界観」といった言い回しが繰り返し安易に使われているのも気になった。著者の認識にしたがえば、事実とは「複雑な多面体」であるのだから、私たちには世界の多面性に対する認識を日々補足していったり豊かにしていくような柔軟で開かれた態度こそがもっとも求められることだろう。その意味では「より多面的な世界観」や「メディアをより適切に使う」姿勢があるだけだ。最初から世界に対する「正しい」理解や構えがあるかのような記述は、著者の世界観に背反することになるのではないか。何より、たいていの「プロパガンダ」はこれこそ唯一の正当性という装いをまとって人びとの前に現われるのだから。 メディアを「批判的に読み解く」ことをアピールしている著者の言葉に接する者は、当然、本書に対してもまた「批判的に読み解く」姿勢を保持していなければならない。
●松岡正剛著『多読術』/筑摩書房/2009年4月発行
「千夜千冊」で知られる松岡正剛が、編集者によるインタビュー形式で読書全般について語りおろしたものである。書名は「多読術」になっているが、内容的には「編集としての読書術」といった方がより適切かもしれない。もっとも「編集としての読書術」がいかなるものかは手短に要約するのが困難で、実際に松岡がウェブ上で個々の書物について述べている文章に触れる方がはるかに読書への欲望が昂揚してくるように私には思える。それはそれとして、本書における松岡のスタイルじたいがすぐれて「編集」的なのも特徴である。さながら雑誌を編集するように、様々な、時には相反するような言説が一冊の本のなかに渾然一体となっているのだ。一人何役もこなしながら読書についての蘊蓄や心得をバラエティ豊かに開陳していく。 前半で「読書なんてたいへんな行為だ」と考えずに「カジュアルなもの」としての読書を強調したかと思うと、後半では江戸時代の私塾で実践されていた「スパルタ読書法」を好意的に紹介したりする。「ながら読書はよくない」という教えを強く否定しつつも、後段では「人にはそれぞれの読み方があり、好きに読めばいいんです」とごく常識的なことを言い放ったりする。 松岡は箴言の人でもある。だから、この人の発言から体系的な見解を見出そうと構えてもあまり得るものはないだろう。雑誌のように自由自在に拾い読みしながら、気に入ったフレーズを反芻するなり引用したりすれば良いのだ。 松岡は言う。本とは、小さな池や水たまりのようなもの。 ……そこを覗くと大きな青い空とか、近くの建物とかが映っている。小さな池でも、覗く角度で大空も入るわけです。もっと真上から覗くと、自分の顔が映る。(p143)
●上杉隆著『ジャーナリズム崩壊』/幻冬舎/2008年7月発行
安倍政権の舞台裏を描いた『官邸崩壊』に続く著者の「崩壊」シリーズ(!?)第二弾ともいうべき本である。今回標的になったのは、ジャーナリズム。なかでも以前から日本独自の問題点として糾弾され続けてきた記者クラブ制度が槍玉にあげられている。ここでの論点に特に目新しさはないものの、大手メディアが記者クラブ制度という既得権益の維持に如何に血眼になっているか、具体的な事実を積み上げながら批判していく筆致には、やはり格別の説得力が宿っているといっていいだろう。記者クラブの存在が公権力との癒着の温床になってきただけでなく、クラブに属さない雑誌記者やフリージャーナリスト、海外メディアの特派員たちの取材を意図的に妨害しているという事実には何とも暗澹たる気持ちにさせられる。 たとえば、ニューヨーク・タイムズの東京支局長が小渕恵三政権当時、首相への単独会見を申し込んだ際、「内閣記者会(内閣の記者クラブ)の了承を取りつけてほしい」といわれ、案の定了承を得られずインタビューを断念したという事実。 石原慎太郎東京都知事が閉鎖的な記者クラブ制度に対抗するため、定例会見とは別に記者クラブに属さないジャーナリスト向けに知事主催の会見を開いていたことがあったのだが、情報の独占体制を崩される懸念を感じた記者クラブ側がいろいろと横やりを入れて中止に追い込んだという事実。 ……これらの挿話を読むと、新聞社やテレビ局の記者連中に「取材・報道の自由」を叫ぶ資格のないことがよく理解できる。 このほか、報道と経営の区別がつけられていない新聞社の悪弊、ネタ元を明確にしない新聞のアンフェアな慣習、政治家の推薦状が飛びかうNHKの採用試験……などなど日本の大手メディアの異様な慣習や実態があぶりだされて批判の種は尽きない、といった趣である。 文章がいささか未整理で論点が行きつ戻りつする構成に推敲の不足を感じたのと、海外とりわけ米国メディアを無批判に比較対象としている点などが少し引っ掛かったが、本書の評価に大きな瑕疵となるものではない。
●河内孝著『新聞社 破綻したビジネスモデル』/新潮社/2007年3月発行
本書は、新聞業界が抱える構造的な問題点をあぶりだし、そのあるべき将来像について考察するものである。著者は毎日新聞で常務取締役(営業・総合メディア担当)を務め、二〇〇六年に退任した。業界に長く生きてきた著者ならではの具体的な記述に富み、メディア産業論としては出色の書物ではないかと思う。新聞ビジネスの「破綻」は、近年のIT革命などとは関係なく、業界内ではすでに昔から表面化していたーーこれが本書の主張するところである。 業界に歪みをもたらしている大きな問題として、著者は主に「部数至上主義」による過当な販売競争と新聞社とテレビ局の資本の一体化に起因するメディア界の閉鎖性の二点を挙げて詳説している。 新聞の野蛮な拡販競争については、多くの読者が体感していることだろう。 発行本社が販売店に対して行なう「押し紙」などの強引な手法と、それと引き換えに様々な補助金で販売店に便宜をはかっている現状など、新聞・テレビでは決して報じられることのない舞台裏の詳細が具体的に記述されている。 また、再販制度と特殊指定という特権を享受しながら、現実には禁じられているはずの値引き販売などを事実上公然と行なっていたり、拡販にあたって裏社会と関係してきたことにも言及されていて、その率直な筆致は終始揺らぐことはない。 また、「マスメディア集中排除原則」が成文化されると同時に空文化していた、という指摘も本書の要点の一つだ。 新聞=テレビのコングロマリット化により、新聞とテレビの相互批判が期待できない構造になってしまったことを河内は批判的に論じている。それは、メディア企業と政治家・官僚と利害の一致したメディア版政官業の癒着そのものであった。 言論活動と企業活動の埋めがたいギャップこそが、今日の新聞不信の根源にあるものではないか、という河内の認識には誰も異存はあるまい。 ただし、これでもかこれでもかと業界の構造的な歪みや欠陥を指摘したあとに示される新聞の再生ビジョンが、妙にリアルなようなリアルでないような第三極を作るための業務提携、さらには前半の主題と直接関連しないIT社会におけるサバイバルの方策……とややちぐはぐな提案に終わっているのが残念。 とりわけ、新聞の将来モデルとして「多品種、少量、安価」な専門的Eペーパーを多数創刊して個々の読者の細かなニーズに対応せよとの提案には今一つ説得力を感じることはできなかった。評判の悪い記者クラブ制度を活用して官庁ベースの専門紙を例示している点など、いかにも大手新聞の発想から抜けきれない冴えないアイデアのような気がする。 何はともあれ、何かと理念倒れになりがちな凡百のジャーナリズム論とはちがい、新聞を産業としての観点から直視し、問題点をうきぼりにした本書の意義は大いに評価に値しよう。
●金平茂紀著『テレビニュースは終わらない』/集英社/2007年7月発行
現在、TBS報道局長をつとめる金平茂紀によるメディア論である。既存のマスメディアに対する根本的な不信が渦巻く昨今、在京キー局の主流を歩んできた筆者が、いかなる苦悶の肉声を発しているのか、少なからぬ関心をもって本書を手にとった。それなりに興味深い事象の紹介は行なわれているものの、残念ながら肝心な点は具体論を欠き、理念的なスローガンばかりが繰り返されるのみで得るものはほとんどなかった。 金平は、冒頭、以下のように執筆動機を述べている。 市民の側から、あるいは、アカデミズムから語られるメディア論の少なくない部分が、批判としてはそれ自体意味があっても、それだけではマスメディアは変わらない。……(中略)……最も必要なのは、実際にメディアに関わっている人間たちの意識の変革なのだ。評論家の柄谷行人の言葉遣いを借りれば「内在的」かつ「超出的」にマスメディアを変えていく運動こそが、いま必要なのだと思う。メディアの内側にとどまりながら、現在のシステムを支配している原理を解体すると同時に再構築していくこと。(p6〜7) だが、本書を通読してみても、解体・再構築すべき「現在のシステムを支配している原理」とは何なのか、明快に言及されている箇所が見当たらない。もちろん「メディアの無謬性神話」だとか「組織防衛のメカニズム」だとか「金儲け至上主義」といったキーワードらしき言葉がいくつか記されてはいる。だが、それもこれも局所的散発的に論じられているのみで、著者が解体と再構築の必要を叫ぶ、当の原理なのかどうかは判然としない。また、それらの問題点を解体・再構築するための具体的な展望が説得力を伴って提示されているわけでもない。 著者は、機能不全におちいっているマスメディアのジャーナリズムを「覚醒ー再生」させることは、真の「公共性」を再認識することに等しい、と述べている。同時に「公共性」とは、市場原理にゆだねていけないことがらだとの認識も示されている。 しかし、現状はどうだろうか。ジャーナリズムの大半を民間企業の形式に負っているわが社会で、著者のいう「公共性」がいかに損なわれているか、著者の属する放送局だけに限ってみても、実例をあげようと思えばいくらでも列挙できる。 あとがきに記された「放送の可能性はまだ緒についたばかりだ」という著者の認識が、本書の記述のいかなる点から導き出されたものなのか、まったくわからない以上、私はただ脱力感とともに本を閉じるほかなかった。
●魚住昭著『官僚とメディア』/角川書店/2007年4月発行
共同通信出身のジャーナリストによるマスメディア批判の書である。もっぱら「メディアと権力の接点で起きている出来事」にスポットをあて、メディアがいかに権力監視の機能を弱体化させているかをあぶり出したものと概括できる。 安倍首相に関するスキャンダル記事の配信を直前に「自粛」してしまった共同通信。 二〇〇五年から翌年にかけて日本中を震撼させた姉歯建築士による建造物耐震データ偽装事件に関する報道のミスリーディング。 ライブドア、村上ファンドの「国策捜査」を批判できないメディアの検察御用達ぶり。 自民党の巧妙な「圧力」に簡単に屈してしまったNHK。 最高裁判所の裁判員制度キャンペーンにまつわる電通の暗躍と地方紙の官製報道。 ……世間の関心を集めた事件の報道を検証しながら、昨今のメディアの批判力の低下と内部で生じているモラルハザードの実態を独自の取材成果を織り交ぜながら描いていく筆致は、それなりに読ませる。 論旨にとりたてて目新しさはないものの、メディアリテラシーに関心を抱いている読者ならば、その向上の一助にはなるだろう。 蛇足ながら、タイトルのつけ方にもう一工夫あってもいいのではないかと思った。
●梓澤和幸著『報道被害』/岩波書店/2007年1月発行
本書は、メディア報道による人権侵害の問題に取り組む弁護士が、種々の「報道被害」の実態とその対策を述べたものである。「冤罪」報道、犯罪被害者へのメディアスクラム……など報道による人権侵害の中身は単純ではないが、具体的な事例に即した記述は説得力にとんでいる。著者の見識が何より優れているのは、そのような報道被害の顕在化に乗じて政府与党がメディア規制の動きを強めていることに、同時に警戒心をもっている点にある。 インターネットの普及もあって、一般市民のメディア不信は具体的な形をとって現れてきている。そうした時流に政府が棹をさして「人権擁護」の名のもとに、検閲的なメディア規制を企図する動きに監視の目を怠ってはならない、筆者はそう呼びかけるのである。その観点から個人情報保護法についても、報道の自由を侵す危険性があるとして批判的な目を向けている。 つまり、本書の問題意識は「知る権利と報道の自由を萎縮させたり、抑圧したりすることなしに、報道被害を減少させ、なくす方策を探るべきだ」(p162)という言葉に集約される。単なるメディア批判に終始せず、俯瞰的に事件報道と人権の関係について問題提起を行なっている点に、本書の大いなる価値があるといえるだろう。 報道被害の再検証としてここに述べられている事案は、どれも悲憤慷慨せずにはおれないものばかりである。 「松本サリン事件報道・再考」では、自分たちの誤りを認めない警察の体質とそのリーク情報に頼りきったメディア報道の安易な姿勢がともに厳しく指弾されている。 また、二〇〇三年に起きた福岡一家殺人事件では、被害者の親族が被疑者としてメディアに追われ、二重の苦しみを味わうことになった。損害賠償請求の裁判を提起し、異例の高額判決を勝ち取った経緯についても触れられている。 何故、報道被害は発生するのか。 著者は、以下の五つの問題点を指摘している。 (1)苛酷なスクープ競争により、たとえば事件被害者の家族と信頼関係を結ぶ時間的余裕もないままに、いきなりマイクをつきつけてしまう。 (2)取材する者とされる者との力の差が歴然としていることが、報道被害発生の構造的原因となっている。したがって、被害を受ける側を強力に支援する体制をつくる必要がある。 (3)犯罪報道の情報源を警察に依存していること。そのために警察のメディアに対する情報管理を監視する仕組みがほとんど存在しない。 (4)メディア企業の経営者や幹部のなかに、利益至上主義、商業主義を報道の公共性よりも優先させる思想が過度に浸透している。 (5)現場の記者やデスクの人権感覚をも問題とすべきである。 そうした問題点を踏まえて、著者は報道被害を減らすための対策として、いくつか具体的な提案を行なっている。 報道被害救済のための業界横断的な「報道評議会」の設立、商業主義に過度に傾斜するメディアの経営陣、編集幹部の意識改革、メディア内部に人権思想を浸透させること……などは、特に異論はないだろう。 賛否両論ありそうなのは、「捜査情報の公開」だ。「警察の情報独占により報道機関に影響力を及ぼす構図そのものを解体することが不可欠」だとして「捜査という公権力行使を監視にさらすことが必要」だと主張するのだ。たとえば、松本サリン事件で捜索差押令状が情報公開の対象になっていれば、メディアはもっと早く真実にアクセスすることができたのではないか、という。 そこで、捜査情報を「公開した場合のプライバシー侵害のリスクを減らすために、犯罪情報を報道するときにはその人が公人でない限りは匿名にする」という方策を同時に提案するのだ。 犯罪報道の匿名化については、以前から提唱するメディア関係者は少なくないが、捜査情報の公開をワンセットにした提案は、考え方としては興味深いものだ。 メディア関係者はもちろん、ジャーナリズムに関心をもつ人ならば、一読しておくべき良書である。
●佐藤卓己著『メディア社会』/岩波書店/2006年6月発行
本書は京都新聞に連載されたコラムをもとに編集されたもので、独立した五〇篇の短文から成る。二〇〇四年一一月から翌年一一月までに生じた個別のニュースを取り上げて、それにメディア論学者としての視点を論述し、問題の考察への端緒を提供する、といった趣である。メディア文化論とは、メッセージ内容ではなくメディア形式を考察するもの、という筆者の認識に基づけば、こうした短文集からメディア文化論学者の神髄を知ることは、ハナから困難といわねばならないだろう。通読した後に、学者としての強烈な主張も個性もついに浮かび上がってくることはなかった。 「メディア」「輿論と世論」「マニフェスト」「公共」などの語句について、学術用語としての歴史的由来や定義に拘泥するのは良しとしても、その後の展開にキレ味を欠き、結果として筆者が何を言いたいのか判然としない、というコラムが多すぎるのだ。 本来、こうした体裁の書物では、学者としての力量よりも批評家・文筆家としての表象能力や話芸を求められるのだが、残念ながら、この筆者にはそのような能力にも不足している。 たとえば、三〇話の「ニューディール・コメディ・二〇〇五」では、二〇〇五年の九・一一選挙の小泉自民党の圧勝劇について、映画『スミス都へ行く』を援用して論述している。小泉をスミス青年に重ね合わせて、『コイズミ靖国へ行く』というオヤジギャグで締め括っているのだが、面白くもなんともない。 あるいは、四七話の「ホリエモンの野望」。ライブドア・堀江社長とフジテレビ・日枝会長の抗争を国盗物語に見立てて、前者を織田信長、後者を今川義元になぞらえる記述なども、今一つセンスを感じさせない。 また「ジャーナリズムの冷笑主義」と題する一文では、「(ジャーナリズムの)政治批判は人々に冷笑主義を蔓延させているだけ」と断じているが、ジャーナリズムの政権与党に対する批判力の著しい衰退が指摘される昨今、いかなる事象をもって、そのように主張するのか理解に苦しむ。 佐藤卓己は、気鋭のメディア文化論学者として売出し中のようだが、本書から彼の良さを感受することはできなかった。 < 前のページ次のページ >
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