ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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カテゴリ:メディア論( 15 )


どうでもいい話題を熱く語る〜『芸能人寛容論』

●武田砂鉄著『芸能人寛容論 テレビの中のわだかまり』/青弓社/2016年8月発行

b0072887_1828244.jpg『紋切型社会』で話題を集めた武田砂鉄の第二作目。論評の対象となっているのはタイトルに謳われているように主に芸能人であるが、テレビにも露出するトマ・ピケティのような学者や織田信成のようなスポーツ選手もふくまれている。

 与沢翼の転落を座高測定の廃止と絡み合わせて考察するかと思えば、前園真聖を阿川佐和子と並べて論じたりする。中山秀征は成果主義が日本の形態に似合わないことを教えてくれる存在だといい、ネプチューン名倉潤を終電まで語り尽くす必要性を熱く語る。騒動前のベッキーについて論じた一文は的を外した感はあるけれど、それもご愛嬌。

 テレビをとおして浮上してくる種々雑多な問題をねちっこく斬ってさばいていく手際は相変わらず達者なものだが、前著以上に題材としては一般のインテリ言論人なら無視するようなものを扱っているので、その熱さとテンションは一種異様といいたくなるほど。とにかく語っている内容よりも語り口に話芸の妙が脈打っているのだ。

 夏目三久アナを論評するのに、他のアナウンサーの書いた本──『半熟アナ』(狩野恵里)、『聞く笑う、ツナグ。』(高島彩)、『ことたま』(馬場典子)、『アナウンサーの日本語論』(松平定知)──などを参照する、その労力にも頭がさがる。

 私はテレビを観ないので、本書で俎上に載せられている芸能人には知らない人が少なくないのだが、そのことは本書の通読にさして障害にはならなかった。武田の論調や文体は好悪を分かつだろうけれど、私には愉しい本であったといっておこう。
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by syunpo | 2017-02-10 18:32 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

安全神話から安心神話へ〜『原発プロパガンダ』

●本間龍著『原発プロパガンダ』/岩波書店/2016年4月発行

b0072887_18581915.jpg 日本のような地震大国で多くの国民が原発推進を肯定してきたのはなぜなのか。その背景には電気料金から得た巨大なマネーを原資に、日本独特の広告代理店システムを駆使して実現した「安全神話」と「豊かな生活」の刷り込みがあった。本書は原発推進のための一方的な情報の流布を「原発プロパガンダ」と定義し、その実行主体と協力者、その手法と事例を解説したものである。著者は博報堂に勤務した後、フリーで活動している著述家。

 電力業界の広告には二つの意味がある。ひとつは原発の安全性や原発誘致のメリットを訴える、文字どおり広告としての役割。今ひとつは、報道を統制するための手段である。すなわち「平時における電力会社の広告出稿は、常に原発政策はバラ色ですと報道してもらうための『賄賂』であり、事故などの有事の際は、出稿引き上げをちらつかせてメディアに報道自粛を迫る『恫喝』手段に変貌する……」。

 原発に批判的な報道を行なったメディアへの原子力ムラの攻撃は徹底したものだったという。たとえば青森放送が六ケ所村の核燃料サイクル施設の建設をめぐって分断される地元の苦悩を描いた番組は業界では高い評価を得たが、それゆえに原子力ムラからは執拗な弾圧を受けることになった。最終的には社長の退陣に加えて、番組の制作母体であった報道制作部の解体にまでおよんだ。財政基盤の弱いローカル局が大スポンサーの電力関連企業や原発推進官庁からの圧力に屈した例はほかにも紹介されている。

 ところで原発プロパガンダの内容をみると、福島原発の事故以前と以後とでは大きな相違がみられる。事故前は、原発の安全性を訴えることが主眼となっていた。事故後は「原発が停止すれば大停電が起き、日本経済が破綻する」というキャンペーンに切り替わった。しかし停止しても何も起きなかったので、その後は事故の深刻さを伝える報道や発言を「風評被害を発生させる」と叩いたり、健康被害を否定するなどの「ダメージ緩和」、輸入資源の高騰で国際収支が赤字となっている現状を訴えて「エネルギーベストミックスによる原発必要論」を前面に押し立てる作戦にシフトしてきている。

 ボランティアの協力を得て行なったリサーチをもとに原発プロパガンダの実態を可視化していく本書の記述はなかなかに説得的である。とくにメディア業界全体に大きな影響力をもっている電通や博報堂にも批判の刃を向けている点は特筆ものだろう。

 広告とは本来、企業と生活者の架け橋になって豊かな文明社会を築くのに貢献するはずの存在だった。が、いつのまにか「権力や巨大資本が人々をだます方策に成り下がり、さらには報道をも捻じ曲げるような、巨大な権力補完装置になっていた」と本間は痛切にまとめている。現政権による言論統制はあらゆる分野に及びつつあるから、これまで以上に国民にはメディア・リテラシーが求められる世の中になった。その意味でも本書のような具体的な検証はまことに意義深いといえよう。岩波新書らしい力作。
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by syunpo | 2016-07-28 19:00 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

秀逸なメディア論〜『誰が「橋下徹」をつくったか』

●松本創著『誰が「橋下徹」をつくったか ──大阪都構想とメディアの迷走』/140B/2015年11月発行

b0072887_19545616.jpg 橋下徹現象をとおして見た一種のメディア論。なかなか秀逸である。著者は神戸新聞出身のフリージャーナリスト。橋下在任当時から橋下現象を相対化するような文章を発表してきており、本書はそれがベースになっている。事後的な高みから分析しているわけではないところがそれなりの説得力をもたらしていると思う。

 橋下徹という人物に発言力と影響力を与えてきたのは、ほかならぬマスメディア自身ではないか。──これが本書の基調となる認識だ。
 まずは橋下が知事に就任した直後の在阪メディアとくにテレビのヨイショぶり。橋下に批判的な態度はおしなべて「守旧派」「抵抗勢力」呼ばわりだった。一視聴者の私からみてもそれは異様に思えたが、その点については次のような分析をこころみている。

 橋下とテレビ局の身内意識。報道局に対抗する制作局の身内意識。番組と視聴者の身内意識。そういう内輪の論理が重なって「われらが橋下さん」像ができ上がり、客観的な検証・論評や批判ができない空気が醸成されていったのではないか。(p28)

 在阪テレビ各局が熱心に橋下を追いかけたのは……中略……自分たちが見出し、育て、政界へ送り出した人気者を見守り、応援する感覚が強かったのだろう。(p122)


 橋下が登庁する日には、登庁・退庁時の朝夕二回、彼を取り巻いて「囲み取材」が必ず行われた。この慣習は府知事時代に始まり、市長に転じた後も続けられた。これが彼の「独演会」を垂れ流す舞台となった。橋下とメディアとの関係は次第に悪化していくのだが、自分たちの報道が「誤報」呼ばわりされても番記者たちは反論も追及もしない。
 著者はそのような「囲み取材」に違和感をおぼえ、取材の現場に足を運び、そのありさまを観察した。また時にはみずから橋下自身に質問をぶつたりもした。そのうえで、二〇一三年時点で著者は次のような雑感をしたためている。

 ……橋下とそれを取り巻く在阪メディアの “共依存関係” はさすがに限度を超えている。異様だと思う。彼を重要な取材対象たらしめているのは、彼に群がっている自分たち自身だ。マスメディアはそのことを自覚し、そろそろ真摯に自省した方がいい。(p116〜117)

 そのうえで著者は一つの結論的命題を提示する。「『毒舌』や『直言』や『ぶっちゃけ』を持て囃してきたテレビというメディアの、橋下徹は一つの「達成」なのではないか」と。

「とりあえず数字(=視聴率)が取れる橋下ネタはおいしい」「……職人ですから、権力を監視するとか、政策を検証するといった発想はなく、とにかく視聴者を引きつけて飽きられない映像を作ることだけを考える」……著者が拾い出してきた現場の記者やディレクターの声にはほとんど新味はないが、むしろその旧態依然とした物言いにこそ問題の根の深さがあることを実感させられる。
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by syunpo | 2016-05-12 20:00 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

権力を監視するための武器!?〜『世論調査とは何だろうか』

●岩本裕著『世論調査とは何だろうか』/岩波書店/2015年5月発行

b0072887_1930193.jpg 代表制民主主義の根幹をなすのはもちろん選挙である。選挙では各政党とも政策を掲げて戦う。しかし社会が複雑化し問題ごとに利害が衝突するなかで、掲げる政策のすべてが個々人の考えと一致する政党や候補者はありえない。そこに選挙の限界がある。それを補完するものとして浮上するのが世論調査だ。

 もっとも科学的な世論調査が確立したのはそんなに古いことではないらしい。日本における世論調査は、戦後、GHQによって導入された。民主主義の普及にとって、科学的な世論調査は必須とされたのである。当初は新聞社が世論調査を積極的に行なったが、その後、選挙の予測や開票予測のために重宝されるようになった。著者ははっきりと指摘しているわけではないが、メディアの商業主義や速報競争に活用されるようになったのである。

 しかし同時に内閣支持率も頻繁に実施されるようになり、その結果は政局にも少なからぬ影響を与えるようになった。これはRDD調査法(番号をランダムに発生させて電話する)の普及によるところが大きい。

 ところが世論調査では、質問の仕方や順序・選択肢などによって、回答が違ってくることはよく知られている。また、調査主体が誰であるかによって、調査結果にも違いが出てくる。自分の考えに近いメディアの調査だと協力するが、そうでなければ協力しないということはよくあることだから。したがって世論調査が世論を知るものというよりも、世論操作のダシに使われる懸念もつねに存在する。

 著者はそうした世論調査の基本的な知見を紹介したうえで、討論型世論調査などの可能性に言及している。いくつかの課題を抱えているものの熟議民主主義のツールの一つとしておもしろい試みといえるかもしれない。

 著者はNHK放送文化研究所世論調査部に勤務する人物である。結論部において世論調査とは何かという問いに、民主主義社会のなかで一般国民に与えられた“武器”であると述べている。「多くの人たちの意見を国や行政に届けたり、権力を監視したりするための“武器”」なのだ、と。著者が所属している放送局の惨憺たる現状をみれば「権力を監視」するというフレーズが虚しく響くのは否定しがたいけれども、本書に関しては世論調査の何たるかを知るうえで有益な入門書であることは間違いない。
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by syunpo | 2015-08-02 19:33 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

言論を産出した基本構造を抉る〜『批評メディア論』

●大沢聡著『批評メディア論 戦前期日本の論壇と文壇』/岩波書店/2015年1月発行

b0072887_1840374.jpg 文壇や論壇はいかに形成されたのか。本書は日本の言論を支えてきたインフラやシステムの生成を批評的言説に的を絞って歴史的に分析したものである。具体的には、一九二〇年代後半から三〇年代中盤にかけてのメディア状況が検討に付される。今日に通じる「言論の場」すなわち「各種の記事様式や出版形態が連接的に誕生」し且つ急速に成熟したのがこの時期だからだ。「『文壇ギルド』から『ヂャーナリズム文壇』へ」(大宅壮一)と移行する時期にあたる。対象としているのは新聞や雑誌における「論壇時評」「文芸時評」「座談会」「人物批評」「匿名批評」の五つのジャンル。

 著者の厖大な文献渉猟の作業は、テクスト内容の真偽よりもそのテクストを産出した構造の析出に向かう。たとえばこの時期には様々な論争が発生したが、論争の頻発は内因的というよりも外因的な要請に規定されていたことを炙り出すのである。小林秀雄が起点になったとされる〈批評無用論争〉も舟橋聖一と大森義太郎の対立に縮約される〈行動主義文学論争〉も、その舞台構造を詳らかにすることでテクスト読解作業だけでは見えない光景が立ち上がってくる。論者たちは自分たちが拠って立つ陣営や機関誌などの方針に乗っていた。

 これらの論争はおしなべて「成果」をおさめなかった。時に論争の現場となった座談会は、最初から和解や結論は目論まれていなかった。ただ論文上で激烈に罵倒しあう論客同士が引きあわされ実際に対面するという事実そのものが文壇の事件として価値をもったのである。

 いうまでもなくメディア環境は背後に控える大衆の消費を前提として形成される。文芸時評も人物批評も膨らんだ読書人口に対処するために作りだされたジャンルである。論壇の有名人の出現ひとつとってみても大衆という集合的存在が不可欠。メディアは一般読者の水準に対応すべく、人物批評は対象人物の人間性や嗜好性に関する瑣末なデータを差し出した。決して思想性や政治性ではない。人物の有名性に駆動された受容形態が存在したからである。

 著者は精細な解像度で言説を生むメカニズムを次々と抉り出していく。メディアは単に発言者たちに場を貸していただけではない。むしろ逆に場が特定の言説を生み論争を生み出していた。そこで「展開されるのは、もはや本義的な論争ではない。際限なきロールプレイの無限接続である。この国ではそれを『論争』と呼んできた」とまで断言するに至る。さらに「メディア環境が言論の潮流を生み出すのであって、その反対ではない」と敷衍される。かくしてマクルーハンのあまりにも有名なテーゼ「メディアはメッセージである」が本書において新たなコンテクストをたずさえて活き活きと甦る。

 これまでの批評や文学研究は、あくまでもテクスト内容を重視するものだった。ひたすらテクストを読み込むことで見えてくるもの。そうして紡ぎ出された言説を尊んできた。テクストの舞台構造を問題にするのはある意味で野暮な事柄だったのだ。だが野暮を徹底することで得られる知見もある。本書で最終的に提示されるのは「批評の再生にむけた『予備知識』」だが、何と示唆に満ち満ちた予備知識であることか。

 本書が析出したメカニズムが現在にも通じていることは繰り返すまでもない。題材の自己言及的な性質は当然ながら「論壇」内部からの感情的な反発も予想されよう。案の定、さる大学教授は、本書冒頭で「日本に」と問いかけている一語をとらえて「外国との比較をまったく行なっていない」ことに難癖をつけている。かかる非批評的な反応もまたいずれ後代の「批評メディア論」で分析の対象になるのだろうか。何はともあれ、必読のメディア論である。
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by syunpo | 2015-03-07 18:52 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

書物の大量生産を実現した発明家〜『グーテンベルクの謎』

●高宮利行著『グーテンベルクの謎』/岩波書店/1998年12月発行

b0072887_10223774.jpg グーテンベルクが発明した活版印刷術はいうまでもなく書物の大量生産を可能にしたという点で時代を画するものであった。彼が手がけた印刷物とりわけ聖書は稀覯書として大いなる価値を有する。
 一九九六年、慶應義塾大学は西洋で最初の大規模な活版印刷本として知られる「グーテンベルク聖書」を日本橋丸善から購入した。同大学では同時にHUMIプロジェクトを発足して、図書館が所蔵する他の稀覯書をも併せてデジタル化する作業を開始した。慶應グーテンベルク聖書のデジタル化の第一段階はすでに完了し、インターネットでも公開されている。

 本書の著者はHUMIプロジェクトに関わる書誌学の研究者。グーテンベルクが発明した活版印刷術が書物の出版にいかに用いられ、いかに後世に影響を与えたかを歴史的、文化的に概観するというのが本書の趣旨である。岩波書店の月刊誌『図書』に連載されたエッセイがもとになっているので一般読者にも読みやすい記述になっている。

 鏡職人として出発したグーテンベルクには謎の部分も多く、また出資者ヨハン・フストとの間でトラブルが発生し中途で印刷機と職人を取り上げられたりしたため、グーテンベルク=活版印刷術の発明家という説には、異論もつきまとった。
 グーテンベルクが活躍した一五世紀中にも、ヨハン・フストのほかヴェネツィアのニコラウス・イェンソンなどの名前が発明者として取り沙汰されたらしい。またそれに付随して印刷術発祥の地をめぐる論争もしばしば白熱した。グーテンベルクが事業を開始したマインツのほかに、彼が滞在したシュトラースブルクを有力視する見解もあり、印刷術の発明をめぐる論争は時に都市の名誉を賭けたものともなったのである。

 活版印刷が普及する以前の書物はいうまでもなく写本であった。これは修道院、大学、都市の書籍工房……と中心となる生産者は移り変わっていったが、いずれも小規模で行なわれたものである。しかし、印刷・出版には近代的な資本主義の原理が働く。現代においても同様だが、本を売った代金は準備期間から数えてずっと後にならないと回収できないのである。その意味では印刷・出版には当初から経営者的な才覚とそれなりの資本が要求されたものと考えられる。

 ところで印刷術の場合、通常は木版から活版へと進展してきたもののように思われるが、実際にはリニアな変化を示したのではなく、木版本の多くは活字本の出現の後に世に出たもので、民衆本の領域では活字本と競合関係にあった。つまり活字本は木版本の改良版として登場したものではなかった。
 またローマ・カトリック教会が発行した「禁書目録」は、結果的に掲載された書物の宣伝となり、カトリック権力の及ばない地域で売上げ増の効果をもたらしたとする史実などもなかなかおもしろい。

 書誌学の楽屋話的なくだりも読者の知的好奇心を大いに刺戟する。古い書物の印刷インクの飛沫や印刷活字の形状を特定するために大英図書館とロンドン警視庁のニセ札専従班が協力して画像スペクトル比較測定機を開発したという話、八〇もの現存写本に至る『カンタベリー物語』の写本系統図を作成するにあたっては、生化学者が研究に用いる発生系統学の理論を応用しているといったことなど、書誌学における最先端の研究状況も紹介されている。本書の刊行は十年以上も前のことだから、今では研究技法のさらなる洗練・進展がなされていることだろう。

 いささか慶應HUMIプロジェクトの広報的な叙述も目につくが、著者の立場からすれば無理からぬこと。グーテンベルクや活版印刷術、また稀覯書の保存・伝承といった問題に関心のある読者にはおもしろく読める本だと思う。
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by syunpo | 2011-07-02 10:32 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

マクルーハン的内破主義に抗う〜『メディアは存在しない』

●斎藤環著『メディアは存在しない』/NTT出版/2007年10月発行

b0072887_965092.jpg メディアは存在しない。これはジャック・ラカンのテーゼ「女性は存在しない」をモジったものである。
 メディアは存在しない。すなわちメディアを存在論的な根拠として用いることの不可能性について斎藤は語ろうとする。もっとわかりやすくいえば、人間はメディアごときの力で本質的に変わることはない、ということである。
 ただし、それはもっぱらマクルーハンをはじめ東浩紀、スラヴォイ・ジジェク、西垣通らのメディア論の批判的検討を通じてなされている。その意味では〈メディア〉論であると同時に〈メディア論〉論といった趣も濃い。

 ジジェクも東もラカンのいう象徴界の衰弱を指摘している。一般に象徴界には、社会・公共性・規範・父性などが対応させられているのだが、斎藤によれば「それらはすべて、イデオロギー化された象徴界にすぎない」。
 今日のメディア論が性急に象徴界の衰弱を前提する大きな理由を斎藤はマクルーハンに見いだす。文字文化が人間の身体を空間的に拡張する思考に対して外爆発をもたらし、電子ネットワークが中枢神経組織自体の地球規模の拡張すなわち内爆発(内破)をもたらすという視点である。斎藤はこのような認識を「内破主義」と呼んで徹底的に批判するのだ。

 メディアの作用によって人間の身体機能が道具的拡張を起こすことは自明の事実としてあるだろう。しかしながら、メディアは自律的なリアリティを生成することができない。たとえばCGがどれほど精緻化しようとも、いや精緻化すればするほど、それはリアリティから遠ざかる。メディアはさしあたり単なる「伝達」以上の付加価値をもたらすに至っていない。その程度の媒介作用が、すでに象徴界の強力な媒介作用のもとにある人間に対して構造的な変化をもたらすことはない。メディアの発達はただ人間の精神分析的な本質を露わにするように作用してきただけではないか。これが斎藤の首尾一貫した認識なのである。

 本書のおもしろいところは、そのような斎藤の主張が全編を覆っているわけではなく、自身の見解に対する反論や疑義を本書のなかに盛り込んでいる点だ。
 斎藤が記した西垣通《基礎情報学》の批判的論考に対しては、西垣本人から反論が寄せられ、その一文も本書で読むことができる。また末尾には斎藤のメディア論と対立する東浩紀と大澤真幸を迎えて議論した記録も収められている。もっともその鼎談を読むかぎり、斎藤が東からの批判的言辞に再考を余儀なくされるであろうような場面はほとんどなく(大澤は最初から調停者的な立場を明確にしている)、むしろ東の立論に対して斎藤が簡潔な突っ込みを入れている場面に、斎藤のラカニアンとしての立場が色濃くにじみでているように感じられた。

 斎藤によれば、メディアとはつまり「コンテクストを与えるもの」にほかならず、コンテクストは精神分析的には、その存在を厳密には記述できない。すなわち、コンテクストは存在しない。そのかぎりで「メディアは存在しない」のである。
 逆にいえば精神分析的方法を放棄したときには、メディアは厳然と存在することになるだろう。その意味では斎藤の言い分は一見挑発的ではあるけれど、結局のところ自身の精神科医としての立場を繰り返し宣言しただけのようにも思われる。
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by syunpo | 2011-05-14 09:19 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

情報を批判的に読み解く〜『世界を信じるためのメソッド』

●森達也著『世界を信じるためのメソッド』/理論社/2006年12月発行

b0072887_19213595.jpg 森達也はオウム真理教についてのテレビ番組製作で信者たちの「善良で、優しくて、気弱そうな」姿を描こうとして上層部から反感を買い、「クビ」になったテレビディレクターである。本書は、メディア・リテラシーの重要性を力説する書物としてとくに目新しいことが書かれているわけではないが、自身の体験談を含めて誠実に書かれた入門書ではあると思う。

 ただ、メディアに関しては新たな局面を迎えようとしている時代のリテラシー論としては全般的に物足りなさを禁じえない。著者がテレビ出身ということもあって、本書で言及されている媒体がオールド・メディア一辺倒なのだ。当然、ここで説かれているのは情報の受け手としての心構えばかりなのである。
 本書が刊行されたのは二〇〇六年。ブログなど一般市民によるネット上での情報発信もすでに一般化していたわけで、若年層向けのシリーズ本である点も考慮するなら、情報の送り手になる可能性も充分想定されてよかったはずだ。一般市民が世の中の情報を一方的に受けとるだけの時代はすでに終わりつつあり、実際、双方向的なメディアの台頭が旧メディアの情報発信にも影響を及ぼしているのだ。

 さらにもう一つ、「メディアを正しく使う」とか「正しい世界観」といった言い回しが繰り返し安易に使われているのも気になった。著者の認識にしたがえば、事実とは「複雑な多面体」であるのだから、私たちには世界の多面性に対する認識を日々補足していったり豊かにしていくような柔軟で開かれた態度こそがもっとも求められることだろう。その意味では「より多面的な世界観」や「メディアをより適切に使う」姿勢があるだけだ。最初から世界に対する「正しい」理解や構えがあるかのような記述は、著者の世界観に背反することになるのではないか。何より、たいていの「プロパガンダ」はこれこそ唯一の正当性という装いをまとって人びとの前に現われるのだから。

 メディアを「批判的に読み解く」ことをアピールしている著者の言葉に接する者は、当然、本書に対してもまた「批判的に読み解く」姿勢を保持していなければならない。
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by syunpo | 2010-05-08 19:30 | メディア論 | Trackback | Comments(2)

無知から未知へ〜『多読術』

●松岡正剛著『多読術』/筑摩書房/2009年4月発行

b0072887_922592.jpg 「千夜千冊」で知られる松岡正剛が、編集者によるインタビュー形式で読書全般について語りおろしたものである。書名は「多読術」になっているが、内容的には「編集としての読書術」といった方がより適切かもしれない。もっとも「編集としての読書術」がいかなるものかは手短に要約するのが困難で、実際に松岡がウェブ上で個々の書物について述べている文章に触れる方がはるかに読書への欲望が昂揚してくるように私には思える。

 それはそれとして、本書における松岡のスタイルじたいがすぐれて「編集」的なのも特徴である。さながら雑誌を編集するように、様々な、時には相反するような言説が一冊の本のなかに渾然一体となっているのだ。一人何役もこなしながら読書についての蘊蓄や心得をバラエティ豊かに開陳していく。

 前半で「読書なんてたいへんな行為だ」と考えずに「カジュアルなもの」としての読書を強調したかと思うと、後半では江戸時代の私塾で実践されていた「スパルタ読書法」を好意的に紹介したりする。「ながら読書はよくない」という教えを強く否定しつつも、後段では「人にはそれぞれの読み方があり、好きに読めばいいんです」とごく常識的なことを言い放ったりする。

 松岡は箴言の人でもある。だから、この人の発言から体系的な見解を見出そうと構えてもあまり得るものはないだろう。雑誌のように自由自在に拾い読みしながら、気に入ったフレーズを反芻するなり引用したりすれば良いのだ。

 松岡は言う。本とは、小さな池や水たまりのようなもの。

 ……そこを覗くと大きな青い空とか、近くの建物とかが映っている。小さな池でも、覗く角度で大空も入るわけです。もっと真上から覗くと、自分の顔が映る。(p143)
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by syunpo | 2009-04-16 09:15 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

キシャクラブの開放を!〜『ジャーナリズム崩壊』

●上杉隆著『ジャーナリズム崩壊』/幻冬舎/2008年7月発行

b0072887_19394385.jpg 安倍政権の舞台裏を描いた『官邸崩壊』に続く著者の「崩壊」シリーズ(!?)第二弾ともいうべき本である。今回標的になったのは、ジャーナリズム。なかでも以前から日本独自の問題点として糾弾され続けてきた記者クラブ制度が槍玉にあげられている。ここでの論点に特に目新しさはないものの、大手メディアが記者クラブ制度という既得権益の維持に如何に血眼になっているか、具体的な事実を積み上げながら批判していく筆致には、やはり格別の説得力が宿っているといっていいだろう。

 記者クラブの存在が公権力との癒着の温床になってきただけでなく、クラブに属さない雑誌記者やフリージャーナリスト、海外メディアの特派員たちの取材を意図的に妨害しているという事実には何とも暗澹たる気持ちにさせられる。
 たとえば、ニューヨーク・タイムズの東京支局長が小渕恵三政権当時、首相への単独会見を申し込んだ際、「内閣記者会(内閣の記者クラブ)の了承を取りつけてほしい」といわれ、案の定了承を得られずインタビューを断念したという事実。
 石原慎太郎東京都知事が閉鎖的な記者クラブ制度に対抗するため、定例会見とは別に記者クラブに属さないジャーナリスト向けに知事主催の会見を開いていたことがあったのだが、情報の独占体制を崩される懸念を感じた記者クラブ側がいろいろと横やりを入れて中止に追い込んだという事実。
 ……これらの挿話を読むと、新聞社やテレビ局の記者連中に「取材・報道の自由」を叫ぶ資格のないことがよく理解できる。

 このほか、報道と経営の区別がつけられていない新聞社の悪弊、ネタ元を明確にしない新聞のアンフェアな慣習、政治家の推薦状が飛びかうNHKの採用試験……などなど日本の大手メディアの異様な慣習や実態があぶりだされて批判の種は尽きない、といった趣である。

 文章がいささか未整理で論点が行きつ戻りつする構成に推敲の不足を感じたのと、海外とりわけ米国メディアを無批判に比較対象としている点などが少し引っ掛かったが、本書の評価に大きな瑕疵となるものではない。
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by syunpo | 2008-09-14 19:56 | メディア論 | Trackback | Comments(0)